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テーブルにお箸を並べながら、キッチンを振り返る。
「ねえ、イチ」
「んー?」
ジューッと水がフライパンに注がれる音が響き、手早く閉じられた蓋の中に湯気が閉じ込められる。流れてきた香ばしさにくぅと僕のお腹が反応する。
「お腹空いたね」
「……誰のせいでこんな時間になったと思ってるんだよ」
壁にかけられた時計を見上げれば、針は午後九時を示していた。窓の隙間から入り込む風は冷たさを増し、夜の匂いを纏っている。
「ごめんね。でも」
麦茶のボトルを取りにキッチンへと向かえば、イチが何かを警戒するようにフライ返しを掴んだまま僕を見つめてくる。
「でも、なんだよ」
寄せられた眉。尖った口の先。僕の顔を映し続ける丸い瞳。
イチは、本当にわかっていない。その表情が僕を遠ざけるどころか近づけてしまうということを。いや、もしかしてわかってやってる?
「僕のせいだけじゃないと思うんだけど」
冷蔵庫へと向かうはずだった手がイチの肩を掴む。わずかにかけた重みにイチの体は素直にこちらへと傾いてくれる。
「イチが可愛すぎるのが悪いんだよ」
耳の奥へと直接落とすようにささやけば、イチの肌が一瞬にして赤く染まる。餃子のいい匂いにふたり分のシャンプーの香りが混ざり合う。まだ薄く湿っている頬にそっと唇で触れる。繋がった輪郭は一瞬。体温さえ溶け合えない時間。それでも同じ香りで包まれている僕らは同じだけの熱を抱えている。
「触れれば触れるほど可愛くなっていっちゃうんだもん。離してあげられなくなっちゃうよ」
「っ……」
「あ、もういいんじゃない?」
文句を言おうと構えたイチの意識を、フライパンへと向けさせる。
透明な蓋の向こうでは水分がいい感じに蒸発している。
「――お皿、出して」
「はーい」
するりと手を離せばイチがため息を落とすのが聞こえた。食器棚を開きながら視線だけを振り返らせる。そこにはあの日――僕が初めて告白した日と同じ複雑な表情をしたイチがいた。
「イチ」
「……なに?」
「好きだよ」
「……お皿」
それが返事なの? と言ってしまいそうになったけど、これ以上は僕のお腹も黙ってはいないだろう。僕は素直に差し出されていた手へとお皿を載せる。
「あ、ねえ」
「んー?」
フライ返しの先でくるりと焼き目のついた餃子がひっくり返される。
「来週、お花見行かない?」
「いいけど」
「またイチのところで和菓子たくさん買っていこうね」
焼き上がった餃子をすべてお皿に着地させると、イチが振り返った。
「もう『たくさん』はいらないだろ」
「そう?」
イチはふっと息を吐き出すように笑いながら言った。
「和菓子じゃなくても、もう『美味しい』と思えるんだろ?」
和菓子以外は何を食べても「美味しい」と思えなかった僕を、イチが変えてくれた。そのことを噛みしめながら、僕も笑う。
「うん。――早く食べよう」
今の僕には、君と過ごすこの日常が何よりも美味しい。
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