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ヒツジとオオカミの日常
パソコンの電源を落としたところで、ふっと息を吐き出す。持ち帰った仕事がひと段落し、休憩を入れようと椅子から立ち上がる。リビング横の部屋は共用スペースではあったが、最近は僕専用の仕事部屋と化していた。
くるりと視線を巡らせば大きな本棚が目に入る。左半分は僕の仕事関係の本が多く並んでいるけれど、右半分は料理の本が目立つ。以前はマンガや小説が多かったのに。いつの間にか変わってしまっている。
「ふふ……」
思わず漏れてしまった自分の笑い声に胸の奥が反応する。
扉一枚隔てているだけ。距離としては近いし、同じ空間にいると言っても過言ではないけれど。同じ家にいるからこそ感じられる気配を「もっと」と欲張ってしまう。
そっと静かに引き戸を開ければ、大きな窓から差し込む光で視界は一気に明るくなった。カーテンの隙間から柔らかな風が流れてくる。冬の冷たさが消えた、植物の匂いの混じる春の風。来週には桜が満開になると点けっぱなしになっているテレビから声が聞こえる。
来週末はお花見に出かけてもいいな。僕らが出会った日の――あの公園に行ってもいい。そのためには今抱えている仕事を終わらせないといけないのだけど……。
顔を振り返らせると同時にキッチンの方へと足を進める。
僕よりも細い背中、華奢な腰で結ばれたエプロンの紐。薄く聞こえる鼻歌はなんの曲かわからないけれど、機嫌がいいのは伝わってくる。
思わずこぼれた息は先ほどのものとは全く違う。吐き出した息を満たすのはどうしようもないほどの愛おしさだ。
「皮から作るの?」
突然声をかけたからだろう。ビクリと両肩を揺らしたイチが勢いよく振り返る。手元でカタン、と銀色のボールが音を立てた。中には丸く整えられた白い生地が寝ている。今日のメニューは餃子だと聞いていたけれど、これはどう見ても中身ではない。皮の方だろう。
「……急に背後に立つなよな」
大きなため息をついて軽く眉根を寄せたイチだけど、一瞬にして染まった頬が隠しきれない感情を見せつけてくる。僕の胸の奥、震えは大きくなり、指先にまで広がる。そんなことにはまったく気づいていないイチは再びカウンターに向き直り、吊り棚の下のラックへと手を伸ばした。
「これ?」
イチの指が届くより早く、僕がラップの箱を掴めば「ん」とイチが小さく頷く。手渡した箱からラップを引き出すと、ボールから取り出した生地を丁寧に包んでいく。
「仕事、終わったのかよ」
白く細いイチの指の動きをじっと見つめたまま答える。
「んー、あと少しってところかな」
「休憩に来たの?」
ラップで包み終わった生地をその場に残し、イチが使い終わった道具をシンクの中へと移動させる。そのタイミングで僕はゆっくりと手を伸ばす。
「うん。それと……」
水の流れる音に重ねるようにイチのうなじへと言葉を落とす。
「……充電」
「ちょ、お前なあ」
びくりと体を震わせ、振り返ろうとしたイチをぎゅっとうしろから抱きしめる。肩へと頭を載せれば、イチの反応が直接体に流れ込む。
「髪、くすぐったいんだけど」
逃げようとしているのか、くすぐったくて震えているだけなのか、イチから感じる抵抗があまりにも弱くて僕の中の熱が大きくなる。
「その生地どれくらい寝かすの?」
腕を緩めることなく問いかければ、イチは「一時間くらいだけど」と律儀に返してくれる。
「一時間ね。じゃあ、イチも僕と一緒に休憩しよう」
「いいけど。とりあえず離れろよ。俺、動けないから」
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