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キュッと水道の蛇口を下ろしたイチがため息に言葉を混ぜる。銀色のボールには溢れ出すほどに水が溜まっている。どうやら洗うのは諦めて僕の相手をしてくれるらしい。それがたまらなく嬉しくて、イチへの想いが僕の体を満たし……溢れた。
「イチは動かなくていいよ」
「は?」
首を振り返らせたイチを待ち構えていた僕が捕まえる。ツン、と触れ合わせた唇の先が柔らかく沈めば、一瞬にして濃くなったイチの香りが僕の心臓を揺らす。表面の皺を感じられるくらいに優しかったキスがせり上がってきた熱に押し出されて強くなっていく。
「んっ……待っ……」
首をすくめて逃げようとするイチを僕は追いかけ、さらに強く捕まえる。
イチが僕の腕の中で抵抗してできた隙間を利用して、体を正面から向かい合わせれば心臓の音が深く絡み合う。音も熱も呼吸すら、もうどちらのものなのかわからなくなる。
「――キ……」
隙間にこぼされた声にならない音が、僕の名前を呼んだのだとわかってしまって、ぎゅっと胸の奥が痛くなる。幸せで嬉しくて仕方ないはずなのに、どうしようもなく胸が痛くて苦しくて、泣きたくなった。
イチに触れるたび、イチが僕の名前を呼ぶたび、こわいくらいに僕の全身は震える。何かを訴えるかのように。手を離したことはないはずなのに。「もう二度と離したくない」と強く思ってしまう。
「……っ」
この痛みを忘れたいのか、忘れたくないのか。僕自身にもわからない。
パッと顔を離せばイチが――頬も耳も首も真っ赤にしたイチが――揺れた水面に僕を映し出す。この中にずっといたい。
「舌、噛まないでね」
「え?」
イチの体に回していた腕でひょいっとその細い体を持ち上げる。軽く肩に担ぐ感じで。
「わ、ちょ、何?」
イチの足からスリッパが落ちても気にせず僕はイチを抱えたまま歩き出す。
「休憩。付き合ってくれるんでしょ?」
「そうだけど」
この体勢だとイチの顔が見えないのが悔しいな。
「え、なんでそっち?」
廊下へと続くドアを僕が開けるとイチの声が肩でビクンと跳ねるように転がってきた。
「休憩するならしっかりしないとね」
「……休憩、するんだよな?」
「ふふ」
止めていた足を再び動かしてもイチは抵抗しない。その代わり「餃子、お前も手伝えよ」と言葉を落としながらきゅっと僕のシャツを掴んできた。
「もちろん」
「……」
言葉が返ってこなくても、その表情を確かめられなくても、触れ合っている体から僕にはわかってしまう。
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