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「ねえ」
「何?」
静かな廊下にスリッパが床を叩く音と遠ざかっていくテレビの音が重なる。背中から追いかけてきた柔らかな風がふわりと肌に触れれば自然と笑みがこぼれる。
「――来週……ううん、今日の餃子って先月作ってくれたやつ?」
言いかけた言葉を差し替える。お花見に誘うのは今でなくてもいい。言葉にしなくても、この時期にあそこを訪れるのはもう毎年のことなのだから。きっとイチもそろそろだと思ってくれているだろう。
ドアの取手を軽く下ろせば、手の中にカチャッと振動が伝わってくる。正面の窓は少し開けられていて白いレースのカーテンが風に揺れている。東向きの窓から差し込む光が白い枕カバーの上に優しい熱を注いでくれているのがわかる。
「そうだけど」
ゆっくりとイチの体をベッドへと下ろせば、僕の首に腕を回したままイチが答えてくれる。
「そっか」
ふふ、と笑いを漏らした僕をイチが睨み上げる。
「何?」
「ううん。イチも僕と同じ気持ちだったんだなって」
「は?」
「いっぱいキスしようね」
「俺はべつに……んっ……」
閉じきれていない口を上から塞げば、自分の体重でベッドが軋むのが膝から伝わってくる。
僕の頭の中では先月の光景が再生され、イチへの愛おしさが狂おしいほどの欲となって溢れ出す。
――ねえ、これニンニクじゃないの?
口の中で広がっていく肉汁が爽やかな香りに包まれる。舌には脂っぽさが消えて旨みだけが残される。イチの作るものはなんでも美味しい。この餃子ももちろんとっても美味しい。美味しいからこそ、いつもとは違う味に思わず聞いていた。
「ニンニクの代わりにシソとショウガ入れてみた」
「さっぱりしていて、とっても美味しいね」
ひょいっと箸の先を香ばしい焼き色へと向ければ、白くもっちりした皮の弾力が摘むだけで伝わってくる。これはいくらでも食べられちゃうな。
「ビールもう一本飲んじゃおうかな」
「飲み過ぎるなよ。久しぶりの休みが二日酔いで潰れるぞ」
「そんなに飲まないし、僕がお酒強いのはイチも知って……」
そこまで口にしてから、目の前のイチの顔が赤くなっていることに気づく。ふいっと逸らされた視線。何かを言いたそうにしながらも小さく噛みしめられている唇。久しぶりの休み。止められたビール。ニンニクの代わりに入れられたシソとショウガ。ちっとも素直じゃない僕の恋人……口だけは。言葉にしてくれないのに、僕にはちゃんと伝えてくる。その顔で、その態度で、全身で。そういうところが可愛すぎるから困る。
「ねえ」
「……何?」
戻ってきた視線を捕まえてとびきりの笑顔を僕はイチに向ける。
「今日、一緒にお風呂入ろうよ」
「は? なんで?」
「僕が酔っ払ってお風呂で溺れたら大変でしょ?」
「いや、お前そこまで飲んでな……」
摘んだままだった餃子をイチの口に当てて塞ぐ。
「ね? いいでしょ?」
「……」
イチの視線が僕の顔から目の前の餃子へとゆっくり動く。「いいけど」小さく落とされた言葉が消えないうちにイチは僕の箸から餃子を奪っていった。
「――イチ」
触れ合わせていた唇を少しだけ離せば、閉じられていた瞼がそっと開けられる。
「……?」
窓から流れてくる柔らかな風がイチの前髪を揺らし、温かな日差しが白く丸い額を照らし出す。
イチが動くたびにできる枕のシワすら今の僕には愛おしくてたまらない。
「愛してるよ」
見開かれた瞳に自分の顔を映しこみ、そのまま深く潜る。イチの答えを僕はもう一度溶け合わせた熱の中で受け取った。
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