2人が本棚に入れています
本棚に追加
/5ページ
無宗教?
その後、母方の祖母が亡くなった。
私は20歳になるまでに、4人の身内と同級生ひとりの死に接したことになる。
お葬式の時は、お坊さんが来てお経を上げる。それが当たり前だと思っているが、江戸時代の徳川幕府による檀家制度の名残だと知っている人はどれくらいいるのだろうか?
私の実家は浄土真宗だったが、別にその教えを信じていたわけではない。
というより、どんな教えなのかも知らないのだ。ただ、檀家だからお盆や葬式になるとその寺のお坊さんが家に来てお経を上げる。ただ、それだけ。
そして、元旦には近所の神社に行って初詣をし、結婚するときは教会だったりする(私は、違ったが)のが日本人の普通だ。
おかしくないですか?
クリスマスやハロウィンは、もう信仰とは関係のないただのイベントとなっているからどうでもいいが、人生の節目となる儀式が、毎回違う宗教で行うというのは、おそらく日本だけで、外国人から見たらおかしなことなんじゃないでしょうか。
人は、何も信じていなければ、何も出来ないということを分かっているのでしょうか。例えば、食事をするにしても、この食べ物は安全で食べても大丈夫だと“信じている”から食べられるのですよね。毎回毒味をしている人など今はいないでしょう。
「何かを信じるとそれにしばられるから嫌だ」と言いながら、験を担いだり、受験前は“滑る”“落ちる”と言わないようにする。変ですよね。言葉に力があると“言霊”を信じているから、それに縛られているのに気付いていないだけです。
私は、言葉には力があると信じてます。言葉にはその人の心のエネルギーが込められていると思うからです。
『幸せだから笑うのではない。笑うからこそ幸せになるのだ』といいます。
ネガティブの言葉ばかり使うと、
ネガティブな思考になるともいいます。
ほんとうの楽観主義は『何とかなる』ではなく、
『何とかしてみせる』と決意し諦めないことだともいいます。
今私はある信仰をしていて、その教えをごくごく簡単に言えば
『全てのことは必然で偶然ではなく、意味がある。
意味があることにできるのがこの信心で、
無駄なことはひとつもない。
自分に起こっていることの原因は全て自分にあって、
自分が決めたことだから、
どんな困難でも必ず解決できる。
だから、諦めない。』と言う考え方です。
とはいっても、聖人君子ではなくて凡夫ですから、失敗すれば凹みますし、痛ければ痛いといい、面倒くさくてサボってしまうことはあるわけです。
それでも、「あぁ、またやっちまったな」と思いながら、そこからまたやり直せばいい。
「〇〇だから、もうダメだ」はないんです。
今からまた仕切り直しだと、始めれば良い。諦めないことが、それがしんどい時もあるけれど、諦めなくていい、最後に勝てばいいというのが希望なんです。
正直、もう〇〇する事は無理かな、できないんだろうな、と考えてしまうことはあります。できないのかもしれないです。
でも、その分他のことができたりするわけで、どんな状況でもできることはあるはずだと思ってます。
今は思うように動けなくて、外出もままなりません。でもまた元気になってもう少し動けるようになるかもしれないし、このまま動けない日々が続くのかもしれません。そうだったとしても、
それは、こうやって書くことができる時間を与えられたのだ。そう信じて、今日もこうして、駄文を飽きもせず綴っているのです。
最初のコメントを投稿しよう!