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空の部屋
退職した? そんなの、僕は知らない。別人の話をしているんじゃないのか。本当に、前原佳乃のことなのか?
何も言えずにいる僕を怪訝そうに見ると、女性は何か言って去って行った。何を言ったのかも聞き取れずにいる僕に関わるのが面倒だったのかもしれない。だけど僕もそんな彼女に関わっている場合じゃなかった。
佳乃、佳乃。どうした、何があった。今、どこにいる。
背に冷や汗が伝うのが分かった。だけどそんなものよりも佳乃だ。もう一度電話をかける。だけど繋がらない。何度コールが流れても、何度かけ直しても、コール音しか流れない。その無機質な音に耐えられなくなって、僕は電話を握ったまま走り出した。
佳乃。すぐに行くよ。だからもう大丈夫だよ。
佳乃の家はここから電車で二十分ほど。もどかしく思いながら窓の外を見る。早く、早く。そう思うのに流れるビルの光すらゆっくりと感じてしまう。落ち着きなく何度も携帯電話を見ても、やっぱりメールの返信も着信もない。心配でたまらなくて、ようやく駅に着いたと同時に僕は走り出した。
佳乃のもとへ。
だけど彼女は部屋にいなかった。
彼女だけじゃない。家具も洋服もカーテンすらない。部屋の中はもぬけの殻で、ただ真っ白な壁が佳乃を呼ぶ僕の声を吸い込んでいった。
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