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――キャッツレイ侯爵は油断していた。
「……そうか。名も知らぬ少女よ。キミの育ての親は実の娘可愛さに、貴女を売るらしい」
「なっ……殿下!?」
「シルヴィニアス様……」
それまでとは纏う空気が変わり、ミーアを知らぬ女性だと言い始める王子。
静まり返る侯爵家の面々。
先ほどまでの温かな空気が一瞬で凍り付いた。
「残念だったな、キャッツレイ侯爵。僕の神獣人としての能力は、ずば抜けた嗅覚と聴覚。一度嗅いだ人間の匂いは決して忘れないんだよ」
「まさか……」
「ああ。最初から気付いていたさ。五年前のパーティで会ったミーアと、五年間会っていたこの少女は全くの別人だ。見た目は誤魔化せても、匂いで僕を騙すのは不可能なんだよ」
その言葉を聞いたキャッツレイ侯爵はみるみるうちに青褪め、その場で床にひれ伏した。
「なんだ、思っていたよりもあっさり認めるんだね。……まぁ、家族しか知らない僕の秘密をこれ以上バラさなくて済んだけど」
誰に言うでもなく、小声でそう呟くシルヴィニアス。
どうやら彼の能力は、ただ嗅覚が優れているだけではないようだ。
シルヴィニアスは自分より倍以上も年上の侯爵に、冷ややかな鋭い瞳で見下ろしている。
嫁ぐ寸前の娘の前で、床に這いつくばる父親の姿はあまりにもみっともなかった。
侯爵も自身のやらかしてしまったことの重大さは、十分に理解している。
だが、彼にも譲れないことがある。
「も、申し訳ありません!! しかし殿下や王家に叛意があってのことでは無いのですっ!! 私はどうなっても構いません……ですがっ、どうか娘だけは!!」
「その娘、とはどの娘のことを言っているのやら。ミーアか? それとも、この少女のことかな?」
「そっ、それは……!!」
この国で一番怒らせてはいけない人物の逆鱗に触れてしまった。
ましてや彼はあの神獣人であり、次期王と目されている人物だ。
一族が死罪にされてもおかしくない。
しかしシルヴィニアスが本当に怒っているのは、長年自分が騙されていたことに対してでは無かった。
それもそうだろう。
二度目に会った彼女がミーアではないことなど、すぐに分かっていたのだから。
シルヴィニアスは自ら侯爵家を調べ上げ、あの嵐の夜に起きた真相を掴んでいた。
それでも、彼は敢えて自分から問い詰めるようなことはしなかった。
――少なくとも、彼女を迎えに来た今日までは。
脂汗をダラダラと流し、侯爵は床で土下座をしたままブルブルと震えている。
王子は一歩、また一歩と罪人へと近寄っていく。
そして断罪の剣を抜こうとした瞬間。
「……キミ、それはどういうつもりだい?」
ミーアの身代わりだった少女が、侯爵を庇うようにシルヴィニアスの前に飛び出してきた。
「もう、お止めください。全ての責任は私……ターニャが取りますので」
彼女はもちろん武器など持っていない。
しかし彼女に抵抗する気など皆無だった。
「そうか、キミの本当の名はターニャというのか。だが、キミの言う責任とは……?」
それでも侯爵を殺させまいと、身体を小刻みに震わせながら立ち向かっている。
王子は殺気を少しだけ抑え、ターニャと名乗った少女の真意を尋ねた。
「シルヴィニアス様を今まで騙していたのは、この私です。婚約を破棄し、私の首をその剣で刎ねてくださっても構いません。……ですが、キャッツレイ侯爵家の皆さんをこれ以上咎めるのはどうかお許しくださいませ」
「た、ターニャ!!」
「……侯爵は少し黙っていろ」
普段は口数の少ない大人しい彼女が堂々と宣言する。
周囲の者も驚いて目を丸くしているが、シルヴィニアスにとって今はそれどころではない。
「……ターニャ。キミはどちらかと言えば被害者だろう。いくら拾われた恩があるからといって、命を懸ける義理はあるのかい?」
彼女に関しては終始優しい態度をとるシルヴィニアス。
だが手は剣に置いたまま。
誰か不穏な言動をすれば、すぐさま切り捨てるつもりなのは変わらない。
「……家族だから」
「家族……? それだけの理由なのかい? もしも事前にそう言うように言われていたのなら……」
「あの嵐の日、私は死を覚悟しました。でもそれでも良かった。生きる意味も無く、ただ道具のように使われる毎日でしたので。……だけど!!」
ターニャは生みの親に名も与えられず、最低限以下の食事だけで働かされていた。
やがて衰弱して動けなくなった彼女は、壊れた玩具のように捨てられた。
彼女は本当ならあの日、馬車に轢かれて死んでいたはずだったのだ。
「それでも、キャッツレイ侯爵家のお陰で生まれ変わることができました! 私にも、大好きな家族ができたんです!!」
侯爵はミーアの身代わりの為とはいえ、ターニャを二人目の娘として愛情を持って育ててくれた。
ミーアも妹のように可愛がり、母親の形見であるはずの指輪を渡してくれた。
ターニャはこの侯爵家に来たことで、家族が居ることの幸せを初めて知ったのだ。
……それでも、シルヴィニアスはなおさら理解ができなかった。
家族なら、彼女を身代わりになんてしないだろうに……。
だが、ターニャも侯爵も嘘を言っていないのが分かっている。
分かってしまうが故に、心の中でモヤモヤが募っていく。
誰も言葉を発さず、沈黙の時間がしばし流れる。
ジリジリと高まる緊張感。
このままでは恩人が、家族が処刑されてしまう。
駄目押しとばかりに、意を決したターニャが口を開いた。
「さぁ、シルヴィニアス様。私を殺し「待て」――え?」
突然ターニャの言葉を遮ったかと思えば、シルヴィニアスが剣を抜いた。
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