第十一章【強烈な喪失感】隼人

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第十一章【強烈な喪失感】隼人

 気づくと隼人は、自室のベッドで眠っていた。  それから隼人はぼんやりした頭で、自分に何が起こったのかをゆっくりと思い出した。  理玄が一人で裏庭に向かった後、隼人は部屋へと戻った。  そして部屋へ戻って少しすると、部屋の中がうっすらと暗くなったように思った。反射的に出窓の方に目を向けると、そこには煙のようなものが立ち上っていた。  それを見て、なんだか嫌な予感がした。その煙は、理玄に預けた櫛と無関係ではない。隼人は、なぜかそう直感した。それからは居ても立ってもいられず、裏庭へと向かった。  櫛を持つ理玄に、声をかけたことは覚えている。  しかし、それ以降の記憶はひどく曖昧である。  隼人はまだぼんやりとした頭で立ち上がり、整理ダンスの前に立った。そして定位置に置かれた朱色のつげ櫛を見て小さく安堵した。  その櫛はバレンタインデーの時に、プレゼント交換としてエリカにもらったものである。 ――受験のために髪を切った方がいい  隼人は髪を切って以来、両親の前で泣いてしまって以来、絶対に白桜高校進学部に合格したいと思うようになっていた。そのため自然と、受験勉強に精が出た。  対してエリカは、スポーツ推薦ですでに高校が決まっていた。そして同じく高校が決まっている友人らと、頻繁に遊んでいるようだった。それを羨ましく思う気持ちもあった。しかし受験勉強で気が立っている隼人を気遣ってくれる余裕があることは、ありがたいとも思っていた。  バレンタインデーにプレゼント交換をしようと提案されたのは、久しぶりの彼女からの誘いだった。  隼人は彼女にチョコレートとハンドクリームを贈った。そして彼女はチョコレートと朱色のつげ櫛をくれた。  つげ櫛は静電気が起きにくく、ウィッグの手入れにも使えるからとエリカはいった。  隼人はそれを、なんともいえぬ気持ちで受けとった。  本当はウィッグなどつけなくなかった。エリカのように、他の子のように、髪を伸ばしたままで受験をしたかった。改めてそんな風に思った。 「学校が離れても、ずっと仲良くしようね」  もらった櫛を見つめる隼人に、彼女はいった。  恋人から贈られる櫛に、なんらかの意味があることはなんとなくは知っていた。しかし隼人は、ただ「ありがとう」とだけいった。  そしてふと、この関係は長くは続けられないかも知れないと予感した。  この関係を続けても、その先には何もない。 そんな風に思ってしまったのだった。 ◇ 「隼人は、私のこと好きじゃないでしょ」 それからエリカは、別れようと隼人にいった。  彼女は自分自身のことを「エリカ」といわなくなっていたし、隼人のことも「山瀬」とは呼ばなくなっていた。  一緒にいたはずなのに、自分たちはいつの間にかずいぶんと変わってしまったらしかった。  彼女と別れた後、ほっとしたのは事実である。  しかし隼人の胸には、ぽっかりと大きな穴が開いた。  それは隼人が初めて経験する、強烈な喪失感だった。  恋人関係を続けた先に何もないとしても、一緒にいられたら幸せだったのではないか。スカートを穿いた自分さえも特別だと想ってくれる人がいて、何が不満だったのだろう。  たとえ彼女と同じ気持ちを返せなくても、彼女の望む関係が築けなくても、自分が彼女を好きだったのは事実だったはずである。  そんなことを、ぐるぐると考える日もあった。  しかし結局は、恋人に戻ったところでなんの意味もないという結論に至るのだった。その気持ちは、今も変わっっていない。それでも彼女のことを思い出すと、今も少し胸が痛む。 ――この櫛について、お話を聞いてもよろしいでしょうか  そういわれた時、自分でも驚くほどに動揺した。  自分の中に、まだ新鮮な痛みが残っていることを思い知らされた。  ふと顔を上げると、もらった櫛をぼんやりと見つめる自分の顔が鏡に映っていた。  鏡に映る自分と目を合わせると、それは毎夜感じるあの視線に似ているように思った。もしかしたらあの視線は、自分のものだったのではないか。そんな風にさえ思った。  彼女と笑い合っていた頃の自分が、どうしてあのままではダメだったのかと、今も自分を責めているような、そんな視線のように思えた。  しかしどんなに楽しかったとしても、彼女との季節はもう過ぎたものだった。  とても居心地はよかったけれど、自分はもうその場所にはいられなかった。  その事実が、まだ少しだけ悲しい。  ただ、それだけだった。
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