第一章【スカート】山瀬隼人

1/1
6人が本棚に入れています
本棚に追加
/13ページ

第一章【スカート】山瀬隼人

 この海沿いの町では、あるはずのない島が時々見える。  その島はネノシマと呼ばれており、そこには妖怪や神様たちが多く住んでいるとされている。  ネノシマは、この土地で生まれ育った者にしか見えず、さらには大人になるにつれて見えなくなるといわれている。  祖父母は幼い頃から隼人(はやと)に、この土地にまつわる不思議な話を聞かせてくれた。  隼人はこの土地で生まれ育ったわけではないが、ネノシマを見た記憶は存在する。  祖父母の家に遊びにいった際に、きらきらと光る水面にないはずの島が見えた。それは、あまりにも当たり前にそこに存在していた。  幼い頃に見たそれは、今もまぼろしだとは思っていない。それほどまでに、はっきりと隼人の記憶には残っているのだった。  隼人は高校入学と同時に、祖父母の家の近所に引っ越してきた。  両親は別荘として使われていたという、中古の一戸建てを格安で購入した。そして両親はその家を、外装を含めて大幅にリフォームした。リフォーム後のその家は、隼人の目には新築にしか見えなかった。  隼人は二階の東にある部屋をあてがわれた。  南側にはベランダに通じる掃き出し窓があり、東側には出窓がある。姉にあてがわれた部屋の方が広かったが、隼人は出窓が気に入ったので不満はなかった。  何よりベランダから海が見えることが、うれしかった。 ◇ 「今の子って、みんなお化粧してるの?」  隼人が化粧品を見ていると、彩樹(さいじゅ)はいった。 「みんなじゃないけど、してるよ。でも中学の時の方が、化粧してる子は多かったかな。進学部の子はあんまりしてない」  隼人はいった。 「私の時もそんな感じだったかな。もう十年以上前の話だけど」  隼人は現在、白桜(はくおう)高校進学部の一年生である。そして彩樹も同じく、白桜高校進学部の出身であった。  彼女は二十代後半らしいが、正確な年齢はわからない。隼人と彩樹はハトコ同士で、盆や正月に祖父母の家で顔を合わせる程度の関係であった。しかし隼人は幼い頃から、彩樹が好きで懐いていた。彩樹の聡明であるが適当な性格と、どこか中性的な見た目が好きだった。 「それ、欲しいの?」  彩樹はいった。 「うん。安くて評判いいから。今使ってるファンデーションがなくなったら、買うと思う」 「どうせ買うなら、買ってあげるよ。今日は気分がいいから」  彩樹はそういって、隼人が持っていた化粧品をレジへ持っていった。 「ありがとう。本当にいいの?」  隼人は会計を済ませた商品を受け取って、彩樹にいった。 「いいよ。高いものじゃないし。毎回なにか買ってあげてるわけでもないし」  彩樹は上機嫌にいった。  ドラックストアを出ると、むっとした暑さが全身にまとわりついた。最近は日を追うごとに、今年の最高気温を記録している。それでも七月下旬の今、暑さの底はまだ見えていない。 「気分がいいっていってたけど。今日、なにかあるの?」 「友だちと遊ぶ予定があるだけだよ。久しぶりだから、うれしいの」  彩樹はそういって、運転席に乗り込んだ。 「久しぶりって、どれくらいぶりなの?」  隼人は助手席に座り、シートベルトをしながら聞いた。 「お正月以来だから、約七ヶ月ぶりかな」 「そうなんだ。いいな、私も友だちと遊びたい」  隼人がいうと、彩樹はちらりとこちらを見た。 「隼人も夏休みは、中学の友だちと遊ぶんでしょ」 「うん。でも授業もあるし、まだはっきり予定は立ててないけど」  県外から引っ越してきたといえど、以前住んでいた場所には電車で一時間程度である。  しかし高校生になってからは、勉強に追われる日々だった。そのため一学期は、それほど中学の友人とは遊べていない。  しかし中学の友人らと、疎遠になっているわけでもない。友人らの日常はSNSでなんとなく把握しているし、友人らも隼人の投稿にはこまめに反応をくれる。  友人らのSNSには日増しに知らない人たちが増えていくが、それは自分も同様である。それらを見ていると、自分たちだけで成立していた閉鎖された環境は、すでに過去になってしまったことを実感する。 「最近、誰かと遊んだっていってなかった? それは中学の子じゃないの?」  彩樹はいった。 「それはネットで知り合った人」 「どうやって知り合うの?」 「メイク動画上げてる人なんだけど。頻繁にコメントつけてたら、仲良くなった」 「その人も男?」 「うん、男。大学生」  彩樹はそれほど関心がなさそうに「へぇ」とだけいった。 「高校の友だちとは遊ばないの?」 「遊ばないかな。毎日学校で会ってるし」  白桜高校進学部は、夏休み中も毎日午前授業がある。 「今はどっちの制服で、学校いってるの?」 「女子の方。男子の方は、入学式しか着てないよ」  隼人は中学二年生の文化祭以降、スカートを穿いて学校に通っている。  隼人の性別は男であるが、精神的にはどちらなのか自分でも曖昧である。  中学二年生の文化祭までは、与えられるまま男子の制服で学校に通っていた。しかし文化祭の出し物で、女子の制服を着る機会があった。その時に、女子の制服の方がしっくりくると感じた。こっちの自分の方が、自分に近い気がすると思った。  それ以降、隼人は四つ上の姉の制服を着て登校するようになった。  隼人が女子の制服を着て登校することに言及する者はいなかった。文化祭の後というタイミングもよかったのかも知れない。そもそも隼人の中学には、スラックスを穿いて登校している女子生徒が数名いた。スカートを穿いている男子生徒は隼人だけであったが、それほど気にならなかった。 「そういえば美羽(みう)のイトコも白桜高校だよ」 「美羽って誰?」 「さっきいってた、今日遊ぶ友だち。あ、ドイツのお土産、まだいっぱいあるから押し付けよう」  彩樹はドイツに出張にいっていた上司から、大量に土産を渡されたらしい。それは彩樹へのお土産というわけではなく、医局に勤務する者へのお土産だったが大量に余ったので彩樹がそれらを引き取ることになったようである。  隼人もすでに彩樹から、珍妙なキーホルダーとマグネットを押し付けられていた。せっかくもらったので、キーホルダーは学生鞄につけている。 「ドイツのお土産って、もう変なお土産しか残ってないでしょ」  隼人はいった。 「チョコレートと一緒に、紙袋に入れて渡せばバレないと思うから大丈夫」  彩樹は平然といった。  おそらく悪気がないので、こういうことを平気でするのだろう。 「イトコの双子ちゃんにも渡してっていえば、結構もらってくれる気がする」 「そのイトコ、双子なんだ? 白桜高校の何年生?」 「隼人と同じで、一年生だったと思うよ。男女の双子。進学部なのかは、わからないけどね」 「名前は?」 「名前は、なんだったかな。凪砂(なぎさ)と、波浪(ななみ)だったかな。とにかく苗字は伊咲(いさき)。美羽は、伊咲屋旅館の娘だから」  伊咲凪砂。それは隼人が知っている名であった。 「伊咲くんか」 「あ、知ってるんだ?」 「うん、知ってる。隣のクラスだけど、体育は一緒だよ。足が速いし、なんとなく目立つから一方的に知ってる。双子なんだね」 「そういえば双子のお姉ちゃんの方も、とんでもなく足が速いって聞いたことある」  つまり凪砂は、双子の弟なのだろう。 「進学部に伊咲って一人しかいないから、お姉ちゃんの方は女子部なのかな」 「そうなんじゃない?」  彩樹はいった。  それから隼人は「伊咲くんと似てるのかな」といって、小さくアクビをした。 「また、眠れてないの?」  彩樹は前方を見つめたままいった。  隼人がアクビをしたことは、こちらを見ずとも感じられたのだろう。 「うん。最近は、また眠れなくなった」 「学校はいけてる?」 「いってるよ。遅刻はするけど」 「あ、そうなんだ。不登校ではないんだっけ」 「たぶん学校休んだことないよ。遅刻するだけで」 「おばあちゃんがあまりにも深刻な感じで隼人の話をするから、不登校のイメージついてるわ」  彩樹はそういった後で「ごめん、ごねん」と笑った。隼人も「別にいいけど」と失笑した。祖母は隼人が眠れないことを、必要以上に心配してくれている。寝坊をして遅刻をするようになったので、当然といえば当然かも知れない。 「雲岩寺(うんがんじ)にお祓いしてもらった後は、効果はあったんでしょ」 「うん、あったと思う。でも今はまた、変な感じがする」  何かいる。  この家には何かいる。  昼に息を潜めている何かが、夜中静かに動き出す。  そしてその何かは、毎夜隼人の部屋にやってくる。  そう感じるようになったのは、今の家に住み始めて少し経った頃だった。  寝入りそうな意識の中にいると、じっとりとした視線を感じる。  耐えきれずに目を開けても、部屋には何もいない。  そのことに安堵はすれど、とても気味が悪い。  毎晩そんな感じなので、隼人は深く眠れずに寝坊をくり返すようになった。  何度か遅刻をしたある日、隼人は眠れない理由を両親に話してみた。  両親は隼人の話を、真っ向から否定したりはしなかった。しかし全面的に信じられるわけでもなかったのだろう。 そしておそらく困り果てた末に、彩樹に白羽の矢が立ったのだった。  両親は医師である彩樹に、隼人の眠れない理由と遅刻が多くなっている事実を相談したようだった。それから彩樹は、時々こうして隼人と遊んでくれるようになった。  彩樹と遊ぶようになってほどなく、隼人は彩樹に紹介してもらった心療内科を受診した。隼人は眠れない原因が自分にあるとは思えず、病院にはいきたくないと頑なであった。しかし一度くらいなら、いってみてもいいかと思えるようにはなっていた。病院では、寝付きのよくなる薬を処方してもらった。  そういう薬を飲むことに抵抗があったが、一度だけその薬を飲んでみた。  何かがいるという気味の悪い感覚は、眠りの中でも感じられた。それでも薬のおかげで、眠れないということはなかった。 翌日は遅刻せずに学校にはいけたが、薬が効き過ぎているのか昼間も眠くて仕方がなかった。それは遅刻をしなかった意味がないほどの眠気であった。  薬を飲んでもあまりいいことはないと判断し、隼人はその日以降、薬を飲んでいない。そしてそれは、両親にも報告した。  それからほどなく、両親は雲岩寺にお祓いの依頼をしてくれた。  雲岩寺はこの辺では有名なお寺で、お祓いに関しても信頼があるようだった。お祓いの提案をしてくれたのは、おそらく彩樹か祖父母だろう。おそらく薬を飲まない隼人を見兼ねて、両親が再度それらのことを相談したのだと思う。  お祓いに来てくれた僧侶の理玄(りげん)は、隼人が想像していたよりもずっと若く、そして話しやすい人だった。 「異変があれば、またいつでも呼んでください」  お祓いを終えると、理玄は優しい口調でいった。  隼人も、隼人の母も、穏やかに話す理玄のことをなんとなく好きになった。  それからしばらくは、驚くほど安眠できるようになった。まさに憑きものが落ちたような、そんな感じであった。  しかしそれも、そう長くは続かなかった。  最近になって再び、夜中に何かがやって来るような、何かの視線を感じるような、あの感覚が戻ってきた。  そして隼人は、再び眠れなくなった。 「効果があったなら、もう一度雲岩寺にお祓いしてもらえば」  彩樹はいった。 「でも二回もお祓いを頼むのって、どうなんだろう。お母さんたち、反対しそう」 「一度目で効果があったなら、反対はしないと思うよ。それに遅刻が続くよりは、ずっといいでしょ」  彩樹はなんでもないことのようにいった。  彩樹のこういう大袈裟でない優しさが、隼人はとても好きだった。
/13ページ

最初のコメントを投稿しよう!