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1話
本降りの雨が、屋根やアスファルトを叩く。その音はゆるむ気配を見せない。薄暗い駅前を眺めて、俺はため息をついた。
「飽きもせずよく降るなぁ」
すると、隣の存在が「ふふっ」と笑う。
「梅雨だからしょうがないね」
紗香はむしろ上機嫌な様子だ。俺は尋ねた。
「うんざりしねーの?」
「人が少なくて、町が静かだもの」
「なるほど。ほら、傘」
紺色のそれを受け取って、彼女が「ありがとう」とにっこりした。俺は照れ隠しに鼻をかく。
「適当に掴んだら男物だった。ごめん」
「大きいから濡れずにすむね。隆史くんのおかげ」
「てゆーか、まともに降ってるのに、紗香が『折り畳みで帰る』とか言うから」
「うちまで十分くらいだし、平気だよ」
「途中で強雨になったらどうすんだ」
「それだと、この傘でも濡れちゃうね?」
俺がムスッとすると、彼女は顔の前で両手を合わせ、『ごめんなさい』の意を表した。
「心配してくれるのが嬉しくって」
「するに決まってるだろ。……カノジョなんだし」
「うん。とってもとってもやさしいカレシ」
ちょっと機嫌を損ねかけたのに、紗香の一言二言でたちまち舞い上がる。まだガキでしかない俺は、ほんとうに単純だ。
それぞれ傘を開いて、帰路に就く。
駅に来るまでは鬱陶しかった雨も、彼女が隣にいて、ときに笑ってくれれば、ちっとも気にならなかった。
* * *
はじまりは冬の日。
俺は贔屓のサッカーチームの試合を観戦するため、隣県まで遠征した。帰路のバスが駅に着き、応援仲間たちとワイワイ盛り上がりながら移動する。
そのとき、ベンチのそばで二十代ぐらいの男女が言い争っていた。
仲間の一人が「うわ、修羅場だ」と小声で言う。俺たちは成り行きを気にしつつも、遠巻きに去っていこうとした。
だが俺は、女性の顔を目にしたとたん、ギョッとした。それが、知り合いの志水紗香だったからだ。
親しい間柄ではないし、関わらないのがいちばん。
けれど目撃した以上、どうしたって気にかかる。様子を窺うと、おもに男のほうが責めていた。彼女も反論するが、平行線を辿る。
とうとう彼女はうつむいて、泣きそうな顔をした。
俺は仲間とともに駅の構内に入り、そのまま帰るつもりだった。でも改札を抜けようとして、足を止めた。
「ちょっと用事を思い出した。先に帰ってて」
戸惑う仲間を残し、構内を戻る。遠目にベンチが見えたとき、男はいなくなっており、彼女が腰を下ろしていた。心なしか、肩を落としているようだ。
意を決して歩み寄る。ハンカチを差し出すと、相手が顔を上げ、そばに立つのが俺だと知って、大きく目を見開いた。
「藤巻くん? どうしてここに」
「スポーツ観戦。ほら」
俺はダウンの前を開いて、中に着込んだユニフォームを披露する。彼女がうなずいた。
「ひょっとして見られちゃった? 口論してるところ」
「……」
「そっか、ごめんね。ここ、私の地元なの」
「俺は通りかかっただけで……」
すると相手はクスッと笑い、ハンカチを「ありがとう」と受け取った。
それで目元を押さえる。俺はますますどういう顔をすればいいのか分からない。
彼女がぼんやりした表情になる。
「どうして、好きなだけじゃうまくいかないんだろうね……?」
返事を求めているわけではないと感じたけれど、俺はその答えを一生懸命に考えた。
放心した横顔に向かって、言う。
「次はうまくいく。素敵なカレシができて、抱えきれないくらい幸せになって、絶対に哀しい思いなんてしない。今日のことなんて遠い思い出になる」
相手がビックリした目を向ける。俺は勢い任せに口にしたものの、『今日なんか』というのは失言だと思った。
「……スミマセン。なんにも分かってねぇクセに、えらそうな口たたきました」
「藤巻くんはやさしいね。私、しっかりしなきゃ」
俺は「べつにいいじゃん」と言った。
「誰だって、哀しかったり苦しかったりする。いつも平然としてたら、嘘くせぇよ。いまは、しっかりしなくたって」
すると彼女は困ったように笑って、「その通りだね」とつぶやいた。
なんとなく帰路をともにする。
俺は慰めることも励ますこともできず、やむなく、今日の試合がいかにエキサイティングだったか熱く語った。彼女はサッカーに詳しくないけれど、しっかり耳を傾けてくれた。
途中の乗り換えで電車待ちをするとき、俺は自販機でホットコーヒーをふたつ買った。
そして片方をおずおずと差し出す。
「こういうの、やっぱ……マズイ?」
彼女はすこし考えたあと、「内緒ね」と受け取った。そして缶を両手で包み、「あったかい」とにっこりする。
いくつも年上で社会人の相手が、高校生のガキでしかない俺に、ふわりと目線を合わせてくれた気がした。
そして、彼女が柔らかく目を細めると、すごくキレイだと知った。
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