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母親に迎えに来てもらおうか。一応お遣い頼まれてるわけだし。そんな事を思いながら屋根のある場所から外をじーっと眺めていた。だが電話をしたとして、あの母が素直に迎えに来てくれるだろうか。時間も時間だ。夕飯の準備してんだから一人で帰ってこい、と言われること請け合いである。
となると、定時上がりの父にお願いするか。いや、定時かどうかも分かりはしないが、電話してみる価値はあるだろう。よし、そうしてみよう。傘はあるが、迎えに来てもらえるならそれに越したことは無い。
鞄の中から携帯を取り出そうとした時、俺の足元に黒い定期入れがパサリと落ちた。
二つ折りのそれは中身が見えるように俺のスニーカーの上に落ち、定期と一緒に入っていた運転免許証がしっかりと目に入った。
「あ、すみませんっ!」
真隣で聞こえた男性の声。
あれ?と考えるよりも先に、体が勝手に定期入れを拾い上げた。
見覚えのある定期入れ。
聞き覚えのあるその声。
そして忘れるはずもなかった免許証の名前。
日下 比呂人
簡単な字ばかりだと思った、あの寒い冬の夜。
手渡されたココアが安心するほど温かくて、彼が落としていった定期入れの免許証を見て、そう……単純な字ばかりだな、と思ったんだ。
だから、忘れるはずがない。
忘れるつもりだって微塵もなかった。
あの時、夜だったから彼の顔をしっかりと見ることが出来なかったけど、分かっていることは一つ。
俺と背丈が変わらないってこと。
俺で一八三cm。そこそこな長身であると自負しているけど、そんな俺と変わらない身長だった。
見間違うはずない、記憶違いなはずもない。
あなたは……あなたはあの時の──。
「ご無沙汰しています、日下さん……っ!」
驚いた顔をした彼は、明るい蛍光灯の下で見ると、あの夜に見た印象よりずっとずっと若くて綺麗な男性だったことが分かった。
俺、あなたにもう一度会いたかったんです!
この再会を、俺は奇跡だと思った。すごくすごく嬉しかった。
それだというのに、「どちら様?」と言いたげな瞳で、困ったように微笑まれ、首まで傾げられてしまった。
……え? あれ? 俺のこと、ご存知ない?
ほら……、あれ? 俺今変装してるっけ?
思わずサングラスを取らなきゃ!と思ったけど、残念なことにそれはTシャツの胸元に引っ掛けられていた。もちろんだが、マスクも帽子もしていない。どこからどう見たって、俺、今 "加藤亮介" だろ!? この身長だし! つぅか、あの冬のことだって、俺だって分かってて声掛けたんじゃないのか!?
え? どういうこと!?
完全に困惑した。
「お店……のお客さん……でしたっけ?」
違う違う! 違うよ、馬鹿! 加藤亮介だよ! お店ってなんだよ、何の店だよ! 店であんたと出会って仲良くなった記憶はこっちにだってねぇよ!
困惑していたのはどうやら俺だけではないらしく、日下さんも一生懸命に思い出そうとしている。スーツ姿の日下さん。あの冬もスーツを着ていた。一般的なサラリーマンとして、取引先の人間の顔でも思い出しているのだろうか。そりゃ忘れちゃマズイかもしれないが、そうじゃないからね!?
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