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『ねえ、何か落としたよ。』 廊下を小走りで進む藍の手から赤い何かが滑り落ちて、私がそれを拾った。私の声に立ち止まった彼女は、しばらく振り向かなかった。初夏のそよ風に揺れた彼女のリボンとスカートの裾をぼんやりと眺めながら名前を呼べば、やっと彼女は振り向いて。 『え、と。』 拾ったのは赤い表紙の小さな日記帳だった。拾ったと同時に丁度開いてしまっていたページに目が奪われて、小さく息をのむ。 これは見ちゃいけないものだった。そう瞬時に理解したけど、もう遅かった。 『・・・あ、ごめん。』 『なんで里紗ちゃんが謝るの。』 『いやだって、これ・・・。』 そこに書いてあったのは、何やら日記のようなものだった。でも、ただの日記じゃない。 【11月6日    彼女を監禁することに成功した。 11月21日 彼女の指を切断した。  1月30日 彼女の爪をはいでみた。感覚が麻痺しているようだ。】 なにこれ、なんなのこれ。 細かな日付と、やった事、少女の様子。やけに生々しくて鳥肌が立った。言葉が出ずそのまま藍の事をぼーっと見つめてしまった。彼女はなにも取り繕わなかった。誤魔化すどころか『ごめん気持ち悪いよね。』と自虐的に笑う。否定することも出来なくて俯けば、藍は日記帳を大事に抱え直して、廊下を進んでいく。 なんでか分からないけど、今彼女を一人にしちゃだめだと思った。このままどこかへ行ってしまう気がした。廊下を進んでいく彼女の目に映っているのはもうこの世界じゃなくて、もっと真っ暗い所へ向かおうとしている気がした。 『っ・・・藍!』 『・・・ん?』 『えーっ・・・と。』 『つ、次の時間!一緒に、サボろう!』 口をついて出たのはそんな言葉だった。自分でも驚いて、藍も予想していなかったのかキョトンと目をまんまるくさせて、私の名前を呼ぶ。 保健室の傍の小さな空き教室で、藍は日記を両手で大事そうに抱えたまま、ゆっくり話してくれた。 『これはね、私のただの妄想なの。』 『妄想?』 『そう。この少女は、私。』 何を言っているんだろう、と思った。普段から彼女は常識的で、言葉も丁寧で、だから余計 に彼女が言っていることが分からなかった。でも、分かりたいと思った。突拍子もない話ばかりだったけど、ちゃんと聞きたいと思った。 『私ね、いつも死にたいの。』 何てことないように、藍はそう言った。私にとっては衝撃的な言葉だったけど、彼女は深刻な話をするふうでもなく、今日の夜ご飯の話をするようにサラサラと自分の事を話す。離婚してお父さんはいなくて、母と祖母と暮らしていること。母は夜の仕事をしていてあまり家に帰ってこないこと。そんな母の事を祖母がいつも悪くいうこと。 『死にたくて死にたくて。それでこんな妄想をしてるの。私、こうやって事件になって死にたいなあって。』 『・・・事件?」 『そう。中学生の監禁事件。行方不明になって、しばらく見つからないの。手がかりもなかなか見つからなくて、でね。』 喜々として藍が話す。まるでお気に入りの本を紹介するみたいに、彼女は話し続ける。 『結局この日記だけ先に見つかるの。どうやって見つかるかって、家のポストに入ってるんだ。差出人不明で届くの。送られてきたのか、それとも誰かが直接入れに来たのか、それさえも分からずに。』 怖かった。正直、とても怖かった。藍の瞳は輝いていて、でもその中は空洞だった。真っ暗で、からっぽで、私の方を見るでもなく俯くでもなく、どこか遠くを見つめていた。 『ねえ、だってさ、里紗ちゃん。』 私の名前を呼んだ藍は、今度はこちらを見てニッコリと笑う。 『こうやってニュースになれば、皆私の事忘れないでしょ?皆の記憶に、残るでしょう?』 『・・・事件じゃなくたって藍の事忘れたりしないよ。だって悲しいもん。』 『えー、どうかなあ。お母さんだっておばあちゃんだって私の事大事にしてくれないのに?ただの他人の皆が、私の事なんて覚えててくれるかなあ。』 タダノタニン、その言葉が冷たくて、胸が苦しくなる。 『おばあちゃんは、藍に酷いことをするの?』 『うーん、どうなんだろう。いつもわたしとお母さんの悪口は言ってくるかな。』 『・・・悪口って?』 『出来損ないとか、社会の底辺とか、はしたない、男に媚びうるしか能がないって。あ、でも全然平気だよ、私を叩いたりするのはお母さんだけだから。』 もう限界だった。笑っている藍が苦しかった。 胸の奥深くから何とも形容できない嫌悪感がこみあげてきて、少しえずいてしまう。気づいて藍が私の背中をさすって、ごめんね、と小さな声で呟く。 『ごめん、こんな話聞きたくないよね。全部気持ち悪いよね、怖いよね。』 『・・・違う、違うよ。』 確かに藍を怖いと思った。ううん、人間が怖いと思った。人の闇を感じて、何とも形容できない嫌悪感と恐怖感じた。でも違う、違うんだ。 『・・・藍。』 『ん?』 『わたしね、お兄ちゃんがいるんだけど。』 思考はまとまらないまま、ぽろぽろと言葉がこぼれ出した。自分でも何を言い出すか分からなかったけど、止めようとも思わずそのまま心に任せて言葉を落とす。 兄がいた。5歳年上の兄だ。仲は悪くもないし、良くもない。家族としての必要最低限の会話をする、別に特別珍しくもない兄妹だ。 それが少しづつ変わったのは、いつからだっただろうか。 『夜になるのね、部屋に来るの。夜中なんだけどね、私もう寝てるんだけど。』 『・・・うん。』 『寝てるんだけど、ドアの音で起きるの。・・・ううん、今はもう、大体同じ時間に目が覚めちゃう。』 廊下の床がきしむ音、ドアがゆっくりと開かれる音、誰かが部屋に入ってくる気配、小さな息遣いと、人の生暖かい体温。 『毎日じゃないけど、時々。体触られるの。私必死に目を瞑って、寝てるふりして。だって気持ち悪いじゃんこんなの。朝起きたら普通におはようって、何もなかったようにさ、ほんとに、本当に気持ち悪い。』 『・・・里紗ちゃん。』 『お母さんに怒られたときとか、何か学校で嫌なことがあった時とか、そういう時に部屋に来るんだよ。だからそういう日はね、寝ないで起きてるんだ。電気つけっぱで、イヤホンして、寝ないように太ももをつねるの。』 何度も何度もつねった跡は痣みたいに変色してしまった。自分のすべてが気持ち悪くて汚くて、毎日体を何回も洗った。きたない、きもちわるい。そう繰り返してしまう私の手を、藍が握ってくれた。それではじめて自分の手が震えていたことに気づく。 『・・・ごめん、急にこんな話して、気持ち悪いよね。』 『そんなことないよ。』 『いいって、気持ち悪いでしょこんなの。』 藍が私の両手を少し引っ張って、名前を呼んだ。ゆっくりを顔を挙げれば、彼女は真っすぐに私を見つめていた。その目は空洞ではなくて、泣きそうな自分の顔が映っていた。 『気持ち悪くないよ。里紗ちゃんは何も悪くないよ。汚くなんてない、当たり前だよ。自分のせいじゃない事を自分のせいにしないで。』 『里紗ちゃんは何も悪くない。そうだって私が知ってるから、大丈夫だよ。』 不思議な空間だった。私の目からは涙がこぼれて、なぜか藍も泣いていた。藍が握ってくれた両手を気づけば私も握り返していた。2人して泣き顔を隠すこともせず、声を上げることは無く、静かに泣いた。窓から差し込んだ夕日が私達を照らすまで、チャイムが鳴り終わるまで、私達はそのままだった。 その日から私と藍は仲良くなった。放課緒に図書館に行ったり、教室でおしゃべりしたり、休みの日に一緒に出掛けたこともあった。学校の話、家族の話、世界への不満、何でも話した。今思えば、私たちは不幸な自分に少し酔っていた。自分たちの闇を誰にも知られたくなくて、でも知ってほしかった。そんな気持ちを共有できるのは藍だけで、その時間が私を救ってくれた。 中学3年生の夏。本格的に進路を考え始める前に、藍は転校することになった。この田舎から神奈川へ。理由は母親の再婚だった。いい人だよ、新しいお父さんの事はそうとしか言わなかった。私もそれ以上は聞かなかった。いつか彼女がそうしてくれたように、ただただ藍の手を握った。 『里紗ちゃん、これ。』 藍がこの学校に来る最後の日、彼女は私に日記帳を手渡した。戸惑う私に彼女は少し眉を下げて笑う。 『これ、里紗ちゃんに持っててほしいの。』 『でも・・・。』 『お願い。私が神奈川に行ったらすぐに捨ててもいいから。』 そんなに分厚いわけじゃないのに、藍の日記帳はとても重く感じた。これを私に預けるのがどういう意味なのか、私には分からなかった。でも、私はそれを大事に抱えて帰った。きっとここには彼女のすべてが詰まっている。彼女のどす黒い血の涙が、インクになっている。 藍が転校してから少しの間文通が続いた。まだスマホも持っていなかったから、私と彼女を繋ぐのは便箋だけだった。でも高校受験があって、部活が忙しくて、その繋がりもいつか途絶えた。久しぶりに送った手紙は、住所不明で戻ってきた。私たちを繋ぐものは何もなくなってしまって、初夏のそよ風に揺れる彼女の制服姿だけが、やけに鮮明に私の脳裏にこびり付いている。
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