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プロローグ
一緒に芸人になろうと誘われた。入学初日のことだ。
ハルはとにかく明るくて、面白くて、自己紹介のときから、たくさんの人に好かれていた。
対して俺はというと、何の面白みのない平凡な挨拶を終えて、これからの学生生活を年相応に心配していたものだ。
元来消極的な性格で、口数だって多くない。俺が大阪出身であることを話さないのは、そのためだ。どうにも他の地方に住む連中は、大阪人とは皆騒がしく、明るく、面白いと思っているらしい。
そんな期待を寄せられても困るので、俺は自己紹介のときも、関西弁が出ないように気を付けた。
けれどその日の終わり、まだ陽の明るい内に解散したクラスの皆が散り散りになる中、ハルは迷うことなくこちらに向かってきた。
そうして机に両手をついて、呆気にとられる俺を前に身を乗り出して言ったのだ。
「夏木って関西人だろ?」
質問の意味が掴めず狼狽えていると、こちらの反応など知ったこっちゃないのか、続けざまに言った。
「わかるよ、全然イントネーション違うからさ。な、夏木ってお笑いとか好き?」
「まぁ、それなりに」
初対面でここまでぐいぐいこられたことも、その態度が自然すぎて一切不快な気持ちにならなかったことも初めてだ。
だからだろうか。俺はその質問に素直に答えた。幼い頃からお笑い文化に触れてきたことは、多少なりとも否めない。特別好きというわけではないが、「好き?」と聞かれて「嫌いだ」と答えられないほどには好きだ。
ハルはそれを聞いた瞬間、元々明るかった顔をさらに輝かせた。見るも目映い笑顔を浮かべて、「じゃあさ!」と一大決心したかのように声を張り上げた。
「俺とコンビ組もう! 『TOM』で優勝しようぜ!」
TOMとは、年に一回行われる漫才コンテスト、『TOP OF MANZAI』の略称だ。恐らく日本で一番有名なお笑いコンテストに、初対面のクラスメイトに誘われたわけである。
自信に満ち満ちた声が、まばらに人が残る教室に響いた。何人かがこちらに目を向けてくる。
驚いて、何より恥ずかしくて、返事を窮している俺にハルは断言した。
「初めて見たとき思ったんだ。お前となら最強のコンビになれるって」
要するに一目惚れしたのだと、反応に困る告白をされた。
真っ直ぐな声と爛々と輝く瞳に圧倒される。羞恥も驚きも忘れて、俺はただただ目の前の男から目が離せないでいた。
気が付けば頷いていた。そんな流れになればそれこそ美談として語られるが、現実はそうもいかない。
すぐに正気に戻った俺は、しどろもどろになりながらも断って、そそくさと退散したのだ。
あのときの俺と言えば、あまりに情けない。けれどその後もしつこく誘い続けてきたハルもハルだ。
結局根負けした俺は、ハルとコンビを組むことになった。夏休みが終わり、二学期が始まったばかりの頃だ。
「来年は大阪に行こうぜ」
額の汗がやけに似合う男だった。
色の剥げたベンチに座って、その日の空のように鮮やかなアイスを頬張り、ハルは言った。
来年の夏休み、大阪に行こうと。
「なんでや」
「そりゃ笑いの聖地だからだよ。一回は行っとかないとな!」
溶け始めた水色の円柱の真ん中、平たい木のべらがひょっこりと顔を出していた。『ハズ』の文字が見える。
「単純やなぁ。んなたいしたもんちゃうぞ」
「そりゃあお前にとってはただの里帰りだろうけどさぁ」
親の事情で東京に引っ越してきたのは中二のときだ。それ以来一度も帰ったことがない。だからと言って里帰りだなんて大袈裟な言い方だと思ったけれど、不思議と心は弾んでいた。
口では呆れを装いつつも、来年の夏、ハルと二人で南海通を回っている姿を想像していたくらいだ。
なだらかな丸みを帯びたバニラに歯を立てる。既にやわらかくなったそれに歯はゆっくりと沈み、ほろりと崩れた。安っぽくも慣れ親しんだ甘さが舌に張り付く。
白くて甘いしずくが、黒い制服にぼとりと落ちた。指で拭うも、いびつな薄黒いシミが残る。
ハルは残り半分を一気に食べたようで、リスのように頬を膨らませていた。口の中のものが全て溶けた頃、再び口を開く。
「でも、いずれは向こうに居着くんだから、下見くらいはしないとな」
「お笑い勉強する学校は東京にもあるで」
「わかってるよ。でもやっぱ大阪だろ」
でも、の意味がいまいちわからない。
笑いの聖地、大阪。ハルはそのことに、やけに固執しているようだった。
その頃の俺はまだ十六歳で、将来どころか受験のことすら頭になくて、ハルが提示した目の前の可能性しか目に入っていなかった。
自分が本当に芸人になるかもわからなかったし、なりたいのかもわからない。
ただ、この明るくて面白い相方とは、ずっとつるんでいたいと思ったのは確かだ。
「じゃあ、ま、来年な」
「よっしゃ、ライブも観に行こうぜ! あと笑話劇も生で観たい!」
「ライブかぁ。夏休みやったらいろいろやっとるかもな。誰見たいねん」
「ジョーン・オブ・ジョーン! あとコサットと、平目板! 八ツ蜂も観たいな」
「さすがに全員は無理やろ……」
人気急上昇中の若手芸人をつらつらと並べるハルの顔は、まだまだ暑苦しい日差しにも負けない光を放っている。
俺は「はいはい」と適当に流しながらも、自然とニヤける顔を隠すのに必死だった。夏の大阪は蒸し暑くて嫌いだけれど、こいつとならまぁまぁ楽しいかもしれない。
そんなことを思いながらも、未だ子供のようにはしゃぐハルに「うっさいねん」と突っ込む。ハルは笑っていた。お前だって楽しみなくせに、と。
あのときの俺は何て返したっけ。どうしても思い出せない。
結局、ハルと夏を迎えることはなかった。
夏がくる少し前、桜の花弁が舞う春の一日に、ハルは車に跳ねられて死んだ。
それを聞いたとき、俺は悲しむでも放心するでもなく、あいつと大阪に行けないんだなと、そう思った。
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