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開場
移動時間と言っても目と鼻の先なので急ぐ必要もなく、十五時前に店を出た。
道路を挟んで向こうに見える縦長の建物には、窓の左側に『二石漫才劇場』と大きな太字で書かれている。
建物の手前でふと左を見ると、下り階段があった。近くの看板に関西発祥のアイドルグループ『NAN✕NAN』の文字が見えたので、恐らくライブシアターなのだろう。それくらいの見当はつくが、アイドルはあまりわからない。
自動ドアから入ってすぐ左手にあるエレベーターに乗り込み、数人の先客とともに五階へ上がる。
間もなく開いた扉の向こうには、人がひしめき合っていた。既に開場しているようで、列はどんどん進んでいる。
発券機とは反対方向にある列の最後尾に並び、財布から劇場窓口でもらったチケットを取り出す。水色のベストを着たスタッフの女性に半券を切り取ってもらい、入場はつつがなく進んだ。
そこまで来てようやく、自分の気持ちがうわついていることに気が付く。たぶん、ワクワクしているのだ。
そのことに若干の罪悪感を抱きつつも、視線はあちこちへ飛んでいた。
ずらりと並ぶ漫才ライブのフライヤー、グッズ、自動販売機、女子トイレから続く長蛇の列……。どれもこれもが新鮮で、色鮮やかに映る。
きっとこの空気のせいだ。見る人すべてがみんな笑顔で、聞こえてくるのは明るい声ばかり。ここにいる全員が、これから百二十分笑いに来てるのだと思うと不思議な感覚になる。
女性客が目立つが、男性も中年も年配の人もいる。年齢も性別もバラバラな人達が、笑うというたった一つの目的のためにここに集まっていた。
そう思うと胸の奥が痒くなってくる。それは、先ほどから感じているワクワク感とは別のものだ。
もっと別のところから湧き出す感情。自分でも知らなかったような深いところから発露したもの。それを何と呼べばいいのか、俺にはわからない。
奇妙な心地のまま会場に入ると、いっぺんに空気が変わった。匂い、色、音。それぞれが転換し、目や耳から伝わってくる。
天井は高く、縦横黒い線が交差していた。格天井、というやつだろうか。提灯型の黄色いライトにぐるりと囲まれた劇場内は、暖色系の暖かな光に包まれている。
既に人はかなり入っていた。俺もチケットを確認しながら自分の席に向かう。
Z列17番。入り口からかなり近い一番後ろの席は、他の座席とは違って簡易的な椅子だ。側には立ち見している人もいる。
落ち着かないまま席に座り、前面の舞台を見る。舞台上にはモニターが吊られていて、芸人のDVD・Bluーrayや、配信番組の宣伝が次々と流れていた。更に上にはなぜかミラーボールが吊り下げられている。
何に使うのだろうとぼんやり眺めていると、お笑いアカデミーという言葉が聞こえてきた。モニターの映像が切り替わったらしい。ハルと入ろうと話していたお笑い芸人養成スクールの映像が流れ出した。
その瞬間、胸の内に湧き上がっていた気持ちの正体が掴めそうな気がした。けれどそれは形を成したかと思えばすぐに霧散してしまって、手のひらでは掴めない。
「こまいってさー」
そのとき、どこからか聞き慣れた名前が聞こえてきた。
辺りを見回すと、ちょうど入ってきたらしい女子二人が何やら笑顔で話しているところだった。知らない女子だ。駒井さんではない。
まぁ、この回を購入したかどうかもわからないのだ。会えたとしても、どんな顔で話すべきかもわからない。
間もなくモニターは消え、照明は暗くなり始めた。むず痒い正体を掴めないまま、舞台は幕を開けたのだ。
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