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夏休み
汗で張り付いたシャツが不快だ。駅までの道を歩きながら、額の汗を拭いつつ足を進める。陽の光に炙られたコンクリートが、スニーカー裏を貫通して熱を伝えてきた。
吐く息は生ぬるい蒸気のようだ。流れた汗が瞼を伝い、睫毛にしずくを垂らす。二、三度瞬きすれば、塩気を帯びた水滴に目が痛んだ。
紺色のキャップを深く被る。じりじりと揺れるコンクリートを一心不乱に見つめて、駅へと一歩ずつ進んでいく。背中に背負ったリュックを揺らすと、水筒に入った氷入りのお茶がガランと涼し気な音を立てた。
◇
「行ってきたら?」
母に大阪行きのチケットを渡されたのは、夏休みに入ってすぐのことだ。
自分ではわからなかったが、ハルが死んでからの俺は目に見えるほど落ち込んでいたのだろう。いつもは口うるさい母も、何かと偉そうな妹も、何も言ってこなかった。
ハルが死んだのは春休みの最終日だった。
始業式でハルの死が知らされ、見知った面々が啜り泣いているのを横目に、俺は校長の頭部をじっと眺めていた。数日前にハルと話していた、朝礼中に校長のヅラがずれているのを発見した生徒、というネタを思い返していたのだ。
自身のヅラがずれていることに気付かずにハゲネタを連呼する校長と、それに鋭いツッコミを入れる生徒。そんなネタを、ハルは考えてきた。
昨今は容姿いじりは印象が悪いぞと指摘して、俺はしたためていた別のネタを見せた。校長の挨拶あるあると称して、まったくあり得ない展開になる、というネタだ。校長が偉人の名言を引用する際、本気で偉人のモノマネをするというネタを、ハルはいたく気に入っていた。
あいつは案外子供っぽいネタが好きだ。いや、好きだった。過去形だ。何せもう、ハルはどこにもいない。
クラス替えも新学期も、何もかもが無為に過ぎていった。あれほど心待ちにしていた夏休みですら、終業式当日になって気付いたくらいだ。
夏休みをどうやって過ごそうか。もうお笑いライブを調べる必要も、チケットをとる必要も、交通費を比べる必要も、有名なたこ焼き屋をピックアップする必要もない。何もやることがなくなってしまった。
そんな俺を見越してか、母は夏休みに入って早々に、一枚のチケットを渡してきた。
「気晴らしに行ってき。交通費とか宿泊費はこっちが持ったるから」
普段ならばズルいと唇を尖らせる妹は、ここにはいない。いや、いたとしても、何も言わなかっただろう。
母の気遣いは、嬉しくもなければ鬱陶しくもなかった。差し出された長方形の薄っぺらい紙切れに、それほどの価値が見出だせない。それでも、ここで何も言わないと母を更に不安にさせることだけはわかった。
俺は受け取って、努めて明るい声でお礼を言った。お金に関しては頼りたくなかったので、春休みにしていたバイト代でまかなった。ハルと大阪に行くために貯めていたバイト代だ。
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