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目を覚ますと、昼の一時を過ぎていた。
いつの間にやら再び眠っていたらしい。広くもない部屋で丸まって寝ていたせいか、体が軋んでいる。
両手を組んで上に伸ばし、背中もまっすぐの状態で伸びをする。大きな欠伸がそのまま出てきて、じわじわと視界が滲み始めた。
さて、どうするか。チェックインまではまだ余裕があるのでここで時間を潰してもいいが、せっかくなので外を見て回るのもいい気がする。久しぶりの大阪だ。特に感慨深くもないが、何となくブラブラしたい気持ちが湧いていた。
動かない場所でしっかり寝て頭がスッキリしたせいか、到着したときより思考も晴れている。
もう一度スマホを開いて時計を確認すると、文字盤の下にLINEの通知が並んでいた。駒井さんからだ。
トーク画面を開くと、メッセージの代わりに電話マークが一つ付いていた。今から一時間前のものだ。
俺は駒井さんと連絡をとったことがない。その通話マークがトーク画面の一番最初で、どれだけ上にスクロールしてもメッセージは出てこない。
LINEを交換したのだって成り行きなのに、なぜ突然電話なんてかけてきたのだろうか。
メッセージを入力しようとした手が止まる。 俺は少し迷ってから、携帯と財布だけ持って部屋を出た。カウンター近くの通話スペースに行き、電話をかける。
出なければメッセージを送ろうと考えていたが、四コールの後にコール音は消え、教室で聞くよりも低い声が聞こえてきた。
「もしもし」
駒井さんだ。俺は無意味に携帯を持つ手を左に替えてから口を開いた。
「も、もしもし。駒井さん?」
「そりゃそうでしょ」
一度自分からかけてきたとは思えないほどドライな返事だ。調子を狂わされながらも、何とか理由を訊ねる。
「何か用事あったん? 急に電話かけてきて……いや、別に嫌とかじゃないんやけど」
必要もないのにどこか言い訳がましくなる自分に嫌気が差す。
駒井さんはどこまでもマイペースに、ゆっくりと答えた。
「用事っていうか、夏木くんって今大阪に来てたりする?」
「そうやけど」
「あ、やっぱそうなんだ。私も今大阪なんだ」
「は?」
話によると、どうやら駒井さんには大阪に住んでいる友人がいるらしい。その人とはネットで知り合い、年に数回は会っていると言う。
「えっ、ていうか何で俺が大阪おるって知ってるん?」
「だって春崎くんとずっと言ってたじゃん。夏には大阪に行って笑いを勉強するぞーって」
他人からハルの名前を聞いた瞬間、その一瞬だけ世界から切り離されたような感覚がした。
だって今まで、こんな風にハルのことを話にするやつなどいなかったのだ。
特に俺に対してはみんな気を遣って、全然関係ない話を、または声をかけないようにしていた。
佐伯も好水も、俺の前ではアイドルの話をしなくなった。二人に勧められたあと、ハルは少しアイドルのファンになってしまったからだ。俺もよく、ハルから話を聞いていた。
呼吸がしづらいと思ったのは、たぶん気のせいだ。俺は自分の胸に手を置いて、ぐっとシャツを掴んだ。皮膚ごと掴んだせいで少し痛い。痛みが俺を引き戻してくれる。取り繕うように息を吸い込んでから、俺はやっと言葉を返した。
「うん、まぁ、そうやけど」
「だから行ってるのかなーって。試しに聞いてみようと思ってさ」
その話を聞いていたからって、普通本人に電話して確認するか? 約束した相手は死んでるんだ、聞くこと自体が失礼だとは思わなかったのか。何てやつだ。非常識だ。
そう思うはずなのに、ちっとも怒りが湧いてこなかった。それどころか、今胸の内を満たすものは喜びだ。安堵だ。
ハルはいた。ハルは生きていたと、実感できることに対する喜びでいっぱいだった。
クラスのみんなは優しくて、担任も、親も妹も、ハルの話はしなくなった。
大阪行きを勧めてくれた母でさえ、ハルの名前は出さなかった。ただ大阪に行くとは話していたので、相手がハルとはわかっていたかもしれない。
みんな気を遣ってくれていたことはわかる。けれど不自然なほどハルの名前を聞かない日々に、俺は不安になっていた。
ハルは初めから存在していなかったんじゃないか。そんなはずはないのに、何度も思ったことがある。自分で思っていたよりも、ずっと苦しかったのだろう。
だからだろうか。平然とハルの名前を出す駒井さんの声を聞いていると、涙が出そうだった。
「そんな予想だけで、電話したん? ははっ、何やそれ」
ずずっと鼻を啜った音は、きっと聞こえてしまっている。それでも駒井さんは声のトーンを変えずに、労りの言葉もかけずに、自分の話したいことだけを話した。
「まぁ駄目元で聞いとこうと思って。実はさ、私達お昼からお笑いライブ観に行こうと思ってるんだけど、何かお勧めある?」
「は? お勧め?」
詳しく聞くと、どうやらその場のノリでお笑いライブを観に行こうという話になったらしい。詳しく聞くまでもなかった。
駒井さん曰く、友人はお笑いにはほとんど興味がないらしく、大阪にいながら生で漫才やコントを観たことがないと言う。
これには少し驚いた。そりゃ俺だってそう頻繁に見たことはないが、大阪に住んでいた頃は数回見る機会に恵まれたものだ。
近くの市民会館に名の知れた芸人が来ると知ったときには家族で観に行ったし、知り合いの知り合いにチケットをもらいかなり前の席で観劇したこともある。
そういうことをハルとちらっと話したことがあったのだが、駒井さんはそれを聞いていたのかもしれない。
「通だけが知る穴場スポットとかあるのかなぁって。あとお勧めの芸人とか」
「いや、初心者やったら難波行っとけばええと思うで。一応他にもあるけど、俺も行ったことないしお勧めできへんわ」
芸人を志しておいて意識が低いと思われるかもしれないが、行ったことないものは行ったことがないのだから仕方ない。
難波以外の劇場も調べたことはあるし、何ならできる限り回ってみようとハルとは話していた。
けれど安定感という意味で、難波の劇場に敵うものはない。
「ああでも、当日券買うつもりなんやったら一石ホールはないかもしれんな。二鳥劇場やったら空いてるかもしれんし、一回調べてみたら?」
「ううん、やっぱそっちの方がいいよね。わかった、難波に行くよ」
話していく内に熱が入っていくのが自覚できる。少し早口になってしまったし、声も大きくなった。気を付けなければと意図的に声をひそめる。つられるように肩も縮込まる。
「夏木くんは観に行くの?」
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