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一瞬、何を言われたのかわからなかった。
返事も返せずに口を開ける俺は、傍から見れば随分間抜けな姿だっただろう。
そんなこととは露知らず、聞こえなかったとでも思ったのか、駒井さんは続けて聞いた。
「お笑い。あれ? 観に行かないの?」
「いや、うん……えっと」
言われたことを理解しても、なぜか言葉が出てこない。舌がもつれてしどろもどろになる。スマホを掴む手が妙に汗ばんだ。
「行かへんよ。うん、観に行かへん」
「何で?」
「な、何で?」
これにはさすがに面食らい、同じように聞き返してしまった。
声が平坦な上に顔が見えないものだから、駒井さんがどういう意図で聞いているのかもわからない。いや、仮にこの場にいたとしても、わかっていなかったかもしれないが。
理由を訊ねられた俺はあからさまに焦っていた。さっきとは比べ物にならないくらい言葉が出てこなかったし、心臓もドクドク早くなっている。
どうしてこんな気持ちになるのかわからない。駒井さんの質問よりも、自分の精神状態が理解できなかった。
この気持ちは何だ? 俺は恐れているのか? 何に?
胸の内を満たす感情の正体が掴めない。
恐怖、戸惑い、悲しみ、困惑。それを覆い隠すほどの――罪悪感。
「行く、理由が……」
自然と漏れ出た声はあまりに小さく、駒井さんにも聞こえなかったようだ。
ふと視線を下ろせば、胸のあたりのシャツに酷い皺が寄っていた。無意識に強く掴んでいたらしい。体が強張っているのもわかる。
「な、なんでそんなこと聞くん?」
迷った挙げ句、俺は質問で返してしまった。既に見え隠れする答えから逃げ出しいが故の選択だ。その場しのぎだとはわかっていたが、時間を稼ぎたかった。
「だって夏木くん、お笑い好きでしょ?」
何かが、それまで心の中で張り詰めていた何かが、弾けた音がした。
それまで強く強く掴んでいたシャツから手を離し、だらりと腕を下げる。気を抜けばその場に崩折れてしまいそうな足を踏ん張って、やっとの思いで返事をした。
「うん、好きやな」
そうだ、俺はただそれだけの理由で、漫才を見たって構わないはずなのだ。
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