『地球平和への探求』

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『地球平和への探求』

ジョセフ・ロートブラット博士(1908-2005)という方がいる。ロシア帝国支配下のポーランド生まれ。 物理学者であり平和活動家である。 ワルシャワにあった生家は、ポーランド全国で荷馬車運送業を営んでおり、裕福な家庭であった。 ところが、博士が5歳の時に第一次世界大戦が勃発。貧困と苦痛の中で幼少年期を過ごすことになる。 その中にあって、 “科学”は、毎日のように経験する飢餓・疫病・不潔・無知・残虐などの人生の苦難を和らげる手段として、 博士を支える“夢”だったという。 戦争に全てを奪われた博士は、 当然戦争を憎み、 “科学”は人類に報酬し幸福をもたらす物であるべきだと考えていた。 ところが、第二次世界大戦が起こり、 “ドイツによるポーランド侵攻”が博士の人生を狂わしていく。 博士は「ヒトラーの強大な軍事力と、それがもたらす恐怖は、私の良心を圧倒してしまいました。 ドイツが原子爆弾を使うのを阻止する唯一の道は、われわれも原子爆弾を持って、彼らに報復の脅威を与えることだ」と考え、マンハッタン計画に参加したのだ。 しかし後に、 ナチス・ドイツは原子爆弾の製造を行ってなく、アメリカ軍の指導層の多くが 「ソ連より優位に立つために原子爆弾を開発するべき」と考えていることを知り、ただひとりマンハッタン計画から離脱する。それは、困難なことであり、数々の妨害や嫌がらせがあったそうだ。 マンハッタン計画の軍の責任者グローヴス将軍は、彼の友人に 「爆弾を開発する本当の目的は、もちろんソ連を抑えるためさ。」と語ったという。 この発言をした当時、ドイツ軍の戦力のほとんどをソ連が引き受けていて 「ロシア軍が連合国25ヶ国の軍隊よりも、対戦国の厖大な兵士と兵器に打撃を与えているという明白な事実を無視することはできない」と、アメリカのルーズベルト大統領は評価している。 事実、毎日何千人というソ連軍兵士が東部戦線で死んでいた。 それに対し、米英軍は、ノルマンディー上陸作戦が実施されるまで西ヨーロッパでの第二戦線を開こうとしなかった。 「敵の敵は味方」という形でソ連と手を結んだ米英だが、自らは戦わず、独ソを共に消耗させようとしていたのではないか。 スターリンもそういう疑念を抱いていたようだ。 ロートブラット博士の奥さまは、 ホロコーストの犠牲となり亡くなっている。 1955年7月 核兵器廃絶・科学技術の平和利用を訴えた宣言文である 「ラッセル=アインシュタイン宣言」に署名、パグウォッシュ会議の会長を務めた。 「戦争を容認する文化を根絶しなければならない。」との信念の元、 90歳を越えてなお精力的に活動し 「私は、自分に疲れることを許さないのです。」と 晩年に至るまで平和への闘志を燃やし続けた。
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