Ⅱ  昭和六十三年十一月② 夕刊配達の後

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(やっぱり、ついてたな。今日は、本当に良い日だった)  集金がいつになくスムーズに進んだ。珍しく留守宅がなかった。居留守を使われることも、持ち合わせがないと断られることもなかった。以前から目をつけていた空き家に立ち寄ると、電気が点いており、転入者の新規勧誘にも成功した。翌朝の折込みも丁合機一回転分のみで、担当者が夕飯前に全作業を終わらせてくれている。販売店に戻ると、ユニフォームのジャンバーを支給された。青一色でシンプルなデザインだが、新聞屋っぽくなく、大学にも着て行けそうだ。冬用の上着を購入する金よりも、時間を節約できたのが嬉しい。給料の額面から税金等と、寮費や賄い代を差し引いた約六万円――加えて、成績しだいで拡張手当が最高四万三千円――が毎月の小遣いとなるものの、使い切るための暇はなかった。 「おかえりー、猪野。聞いてくれよー。今日さあ、歌舞伎町でぼられたわー」  築三十年は超えているらしい木造二階建ての安アパートの部屋に帰るやいなや、寮の同室の先輩で十四区担当の春田が愚痴り始めた。先輩のCDラジカセは、今日もWinkの「愛が止まらない」を繰り返し再生しているらしい。地元の静岡で一年浪人した後に、石神井に来て二年目。大学予備校に在籍して三年目になる春田は、十一月の最初で最後の公休を取っていた。石神井販売店所属の予備校に通う新聞奨学生は、秋から冬にかけて週一日きりの公休を貯めねばならない。受験シーズンに、まとめて使うためだ。朝刊配達を終えて疲れた状態で大学入試を受けるわけにはいかないし、大雨や雪に見舞われては遅刻しかねない。新聞奨学生も専業員も、有給休暇は夏休みの三日間だけしかとれなかった。
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