Ⅱ  昭和六十三年十一月② 夕刊配達の後

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 各読者と初めて面と向かった四月分の新聞代集金時に、火曜日だけは学業との兼ね合いで夕刊配達が遅れると、頭を下げてまわった。まゆみ荘二〇三号室の狭い玄関の土間で頭を上げたときに、「大学生と兼業だと、大変だよね。うちは、遅れても全然構わないから」と応えてくれた身長百五十センチくらいの華奢な女性読者の笑顔に惹かれ、惚れてしまいそうになり、五月分以降の集金や夕刊配達の際に逢ううちに惚れてしまった。  ――佐藤の若奥さん。一郎は、心の中で彼女をそう呼んでいる。憧れを込め、かつ愛人でないことを強く願いながら。髪は、軽めのボブ。スッピンでも、薄化粧でも、こじんまり愛らしく目鼻の整ったこの和風美人は、埼玉出身の十一区の前任者で大学四年生、新聞奨学生ながら管理職も担っている東海から引き継いだ最重要な読者情報によると、 「たぶん二十代後半だろうけど、ひょっとしたら三十代かもしれないな。職業は意外にも二トントラックの運転手。同年代の旦那を見たことはないけど、たまに背の高い初老のロマンスグレーが部屋に出入りしてるんだよな!」  若奥さんの面影がある小学一年生の娘のジュンちゃんはともかく、他の家族については聞くに聞けない。それ以前に、目と目を合わせて話すことすら困難だったりする。一郎は、改めて思う。佐藤の若奥さんは、シングルマザーと近ごろ呼ばれる子持ちの独身女性なのだろうか。ロマンスグレーは、年の離れた旦那なのだろうか。彼女の父親なのだろうか。ジュンちゃんの父親なのだろうか。あるいは、彼女のパトロンなのだろうか……。
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