Ⅱ  昭和六十三年十一月② 夕刊配達の後

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 今日が良い日なのは、間違いない。二十部余りの夕刊を順路に沿って配り、日が暮れかけて寂しさを覚えたまさにそのときに、青いトラックを運転する佐藤の若奥さんと路上で擦れ違うことができたのだから。彼女は、気づいてくれた。小さく会釈しながら笑顔も見せてくれ、胸をときめかせてくれた。初めて二トントラックに乗った佐藤の若奥さんと逢った日を思い出す。やはり夕刊配達中に、まゆみ荘近くの狭い鉤形の道路に差しかかったときだった。一歩間違えば衝突しかねなかったのは、互いの前方確認ミス。フロントガラス越しに、目を丸めて口を尖らせた後に明るく可愛らしい笑顔で頷くように会釈してくれ、クールにハンドルを操り、角を曲がって行った彼女。生涯忘れられないだろう。  夕刊配達を終えて販売店に戻る道すがら、一郎は賄いの晩飯のメニューが何だろうなどと思いはしない。この数日は、Winkという女性二人組新人アイドルの「愛が止まらない」のサビを口ずさみつづけている。愛しい佐藤の若奥さんの様々な表情や笑顔を思い浮かべながら。彼女にドラマが始まっているのだろうか。現在進行形なのだろうか。相手は、やはりロマンスグレーなのだろうか。まさか、自分であるはずがない。いかんせん、若輩すぎる。小柄な女性は、ないものねだりで背の高い男性を好むのではないだろうか。熊本では割りと受けが良かった自分の九州しょうゆ顔も、東京に住む女性にはさほど好まれないようだし……。
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