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邂逅(2)
その日、僕は寝苦しくて真夜中に目が覚めた。
水を飲みに行こうと、起き上がろうとした時だった。体が急に動かなくなった。
金縛り…
不意に、部屋の隅にゆらりと黒い影が立ち上がった。
驚きのあまり叫びそうになったが、声が出せなかった。影はゆっくり僕に近づいてくる。顔はよく見えないが、瞳が紅く染まってるのが見えた。
紅い瞳を持つのは…
吸血鬼?
まだ新月じゃないのに…
急に浩平の話を思い出した。
『個人的に狙ってくる奴がいるんだってさ』
部屋に入り込んでまで、何で僕を…
影の足が止まった。
ローテーブルの上をじっと見て、何か躊躇っているようだった。てっきり襲われるかと身構えていた僕は、拍子抜けした気分だった。
何をしてるんだ…
思いきって体を起こすと、さっきまでの金縛りが嘘のように解けて自由になった。
僕は掠れた声で尋ねた。
「…おまえ、吸血鬼か」
影はそれに答えず、手を伸ばして何かを掴み取ると、開いた窓から外へと飛び出していった。僕は急いで部屋の明かりをつけた。
テーブルの上からなくなったものは…
チョコレート…だな
しかも、大袋ごと。
甘党なのか?
いや、そこじゃなくて
窓から顔を出して外を見回したけど、空に眉月が光るだけで、それらしき影は見えなかった。
僕はほっとして窓の鍵をかけると、ベッドに座った。気が抜けたら急に笑いが込み上げてきた。彼らにとって人間の血液は何物にも代えがたいはずなのに、あの逡巡が血よりもチョコを選ぶための…
僕が狙いなら、チョコを持ち歩いとくか
いざとなったら投げつけて、その隙に逃げよう
その場面を想像した僕は堪えきれずに吹き出すと、ベッドに突っ伏して声を出して笑った。恐怖の反動のせいかあんまり笑いすぎて、最後には涙が止まらなくなった。
この1年、ずっと笑ってなかったな…
深く息をついた時、感情を取り戻した僕は気分がとてもすっきりしていた。
『なぶり殺しにされるのか、生殺しなのか』
でもそんな可愛いヤツなら、たとえ怪物でもまた会ってみたいと思った。
週末の金曜日。
残業を終えて会社を出たのは、夜の9時を回っていた。慣れた道をいつものように歩き出して、僕はふと今日の日付を思い出した。
ヤバい。今日は新月だ…
吸血鬼とはっきりした協定なんてあるわけもないが、新月の夜9時を過ぎると奴らは活発になり、人間はその分襲われる可能性が高くなると言われている。だけど、撃退グッズもたくさん売られているし、あとは自己責任だ。
周りには週末を楽しむ人が大勢歩いていた。その人たちが急に全員吸血鬼に見えて、僕は足がすくんでしまった。立ち止まった僕の肩を誰かが叩いて、危うく悲鳴をあげそうになった。
「び、びっくりし…」
「こっち。走れるか」
腕を掴まれた僕は、後を追って走り出した。
「チッ。組んで来やがった」
振り返って舌打ちした。
口調がだいぶ違うけど、駅で会ったあの彼だった。
確かに背後から何人かの足音がする。きっと吸血鬼なんだろう。いくらなんでもここで八つ裂きなんて御免だ。
彼の背中を見失わないように、僕は必死で走った。路地を幾度も曲がったので、自分がどこを走っているのか見当もつかなかった。
「しつこいな。仕方ねえ」
そう言って彼は僕を抱えるとふわりと跳んだ。
いや、飛んだ─
「うわ…」
「掴まってろ。すぐ着くから」
風に上着の裾がはためき、彼の腕に抱かれてしがみつくと、眼下に街の灯りが小さく見えた。さっきまで2人で走っていた場所も、遠すぎてもうわからない。
街のシンボルである時計台を中心に、色とりどりの光が並んでいる。高速道路の街灯や橋のイルミネーションなんていつも見慣れているものなのに、切羽詰まった状況から抜け出せたせいか、その景色を僕はとても美しいと思った。今思えばそれは、隣に彼がいてくれたからかもしれない。
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