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契約(1)
空中にいたのはほんの数十秒だったと思う。
飛んだ時と同じように、彼はまたふわりと地面に降り立った。彼の肩から手を離して、僕も自分の足で立った。
向かい合った彼は僕より少し背が低いし、とても華奢な体つきだ。僕が痩せているとは言っても、軽々と持ち上げてしかも空を…
「ありがとう。君のおかげで助かったよ。誰かの背中があんなに頼もしく見えたことはなかった」
僕がお礼を言うと、彼は口元だけで微笑んで先に歩き出した。
目の前には大きな家があった。外壁も庭もどこまであるのかわからないくらいだが、夜目でもかなり立派な屋敷であることは見てとれた。
「ついて来い」
頷いて玄関までのアプローチを彼に続いて歩いていると、暗闇に蠢く気配があって、僕はギクリとして足を止めた。
「ああ、大丈夫。番犬だから」
黒い、犬なのか
だから姿が見えない…
「ロイ」
闇に向かって彼は話しかけた。
「こいつは俺の大事な客だ。匂いをよく覚えとけ」
また何かが動いたような音がしたが、それっきり静かになった。
ずっと暗闇を歩いていたせいか、玄関の灯りが眩しく見えた。解錠の音がしてドアが開くと、白髪交じりの執事が出迎えてくれた。
「お帰りなさいませ」
「何か食べるか」
彼にそう聞かれて、僕は夕食を食べはぐっていることを思い出した。
「あ、少しなら…」
「では、すぐにご用意致します」
執事はスッと下がっていった。
案内されたのはがらんと広いダイニングホールだった。
畳で数えたらどのくらいなんだろう…
「適当に座っとけ」
言われるがままに一番近くの椅子に座った。
「助けてくれて、ありがとう。二度も」
僕が言うと、彼は楽しそうに笑った。
「礼を言うのはまだ早いぞ。俺の話を聞いてからじゃ、そんな気も起こらないかもしれない」
「どういうこと?」
「俺が誰かもわからないし、何を考えてるのかも知らずに、そんな簡単に信用するのか」
同じ顔でも口調が違うと、雰囲気がガラリと変わる。それでも僕には、彼があの笑顔の延長上に今もいるように思えた。
「でも、君が悪い人には見えないな」
「いいのか、そんなこと言って」
そこへ執事が食事の用意をして戻ってきた。
「まあ、食べながら話そう」
こんな時間なのに、出された料理は前もって用意してくれたようなご馳走だった。
「おまえ、名前は」
「遼太郎」
「俺はルカだ。飲むか?」
「いや、今はいい」
ルカは自分のグラスにだけ、飲み物を注いだ。赤ワインの色だ。それでふと思い出した。
「あ、ごめん。こないだ僕、コーラのお金払ってなくて」
「…ああ。そんなのは別に」
「あの時、親切にしてもらって助かったよ。だからまた君に会えて嬉しかった」
ルカはちょっと呆気に取られていたが、咳払いすると居ずまいを正した。部屋の明かりの中でもルカの瞳が紅く見えて、僕は体がすっと緊張するのがわかった。
「簡潔に行こう。俺は吸血鬼だ。そして、おまえは俺の獲物だ」
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