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邂逅(1)
初夏で暑くなりそうな日だった。
通勤中に満員電車で気分が悪くなった僕は、途中の駅で下車してベンチで休んでいた。
寝不足だったからかな
でも、今までこんなことなかったのに…
タオルを濡らして顔に当てたかったけど、洗面所に立つのも億劫だった。
せめて冷たい飲み物とか…。
「大丈夫?」
その時声をかけられた。
顔をあげると若い男性が僕を覗き込んでいた。童顔の人懐っこそうな鳶色の瞳に、僕は少しほっとした。
「あ。ちょっと、気分悪くて…」
「冷たいもんとかいる?」
「…お願いしてもいいかな」
男性はにこっと笑うと、自販機の方へ歩いていった。そして、ペットボトルのコーラを2本持って戻った彼は、片方を僕に差し出した。子どものような彼のチョイスに、僕は思わず頬が緩んだ。
まあ、何をって頼んだわけじゃないからな
「ありがとう」
額に当てるとひんやりとして、少し火照った体が冷やされていくようで気持ちよかった。日陰にいるせいか、吹いてくる風までも涼しく感じられた。
自分の分を飲みながら、彼が不思議そうに尋ねた。
「あ、飲むんじゃなくて?」
「飲むけど、まずこうしたくて」
「ネクタイとかボタンとか、緩めた方がよくない?」
「ああ、そうだね」
上着を脱いで彼の言う通りにすると、風通しが良くなったせいかだいぶ気分が落ち着いた。
「助かったよ。ありがとう。僕はもう少し休んでから行くから、どうぞお先に」
「うん。じゃあ、気をつけて」
彼は笑って立ち上がった。無邪気な笑顔だった。
「またね」
え?
彼の顔に見覚えはなかった。
「あ、お金…」
呆然として彼を見送っていた僕は、手にしたコーラのことをすっかり忘れていた。
「おーす、遼太郎。珍しいな、遅刻なんて」
出社すると、同期の浩平が声をかけてきた。人付き合いの苦手な僕にも、彼は気さくに話しかけてくれる。
「ああ、ちょっと人混みで気分悪くなって…」
「メシちゃんと食ってんのかよ」
「大丈夫だよ。ありがとう」
深い付き合いはないけれど、さりげなく僕を気にかけてくれる彼は、ありがたい存在だった。浩平は椅子に座ったまま僕に近づいてきて、声をひそめた。
「今週は新月だったよな。こないだ聞いたんだけど、吸血鬼の中には、個人的に狙ってくる奴がいるんだってさ」
吸血鬼のことは、今や天気予報並みに日常の話題となっている。特に新月が近づくと、彼らの情報を交換するのが僕らの習慣みたいになっていた。
「恨まれる覚えはないんだけどな」
「なぶり殺しにされるのか、生殺しなのかわかんないけど。どっちみち捕まったら、おしまいなのは変わんないみたいだな」
どうせなら、いっそのことひと思いに殺っちゃってくれたらいいのに
僕はぼんやりとそんなことを考えた。
「気性が荒いんだろうな。先月の時は全身引き裂かれた上に、首もなかった死体があったらしいし」
「うえぇ…」
そうは言っても朝っぱらから想像したくない。
また気分が悪くなりそうだ。僕は無意識に、まだ冷たさの残るコーラのペットボトルを、お守りのように握りしめた。
「見た目だって俺らと変わんないって言うんだから、見分けるのは至難の技だよな」
「確かにね…」
浩平はため息をついてコーヒーを飲んだ。
僕たちの住んでいるこの世界には、吸血鬼が潜んでいる。
見た目は人間と変わらない。
違うのは虹彩の色だけだ。
彼らは食事だけでもある程度の生命維持はできるが、数百年に及ぶ寿命と不老のために、定期的な吸血が必要となる。容姿は若く美しく、人間を惹きつけ、捕らえて吸血し食糧とする。
補食された人間は死亡することがほとんどだが、稀に吸血鬼として蘇るものがいるという。
すべての光が途絶える新月の夜は、彼らの絶好の狩猟解禁日だ。僕らは出歩かないで家にいるのが最善策となる。十字架や銀、にんにくなんて、もはや気休めにしかならない。何百年も経て彼らだって抵抗力をつけて、この世界で生き残るために適応してきているのだ。
油断はできない。
…と、思っていた。この日までは。
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