その十二、表題

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その十二、表題

「そうですね。いくつになってもです」  若駒は思いだしていた。生まれて初めて書いた作品の名をだ。  ……子供の頃、書いた作品の表題を。 「そうじゃ。いくつになっても、なにも変わらんのじゃ。同じ。そして、いつでも、そこがスタートラインなんじゃ。その先は誰にも分からん。だからこそ面白い」  ふふふ。 「はいっ」  と言った若駒の顔は、晴れ晴れとして爽快にもみえて、なにかが吹っ切れていた。  いくつになっても。  とても良い表題だ。  そうだ。  そして、  あの出版社の応接ルームで再び編集と膝を突き合わせる若駒。  事前に送ってあった原稿用紙が入った封筒をガラステーブルの上に置く編集。胸ポケットから赤い箱を取り出してタバコに火をつける。紫煙をくゆらせてから、ペットボトルのお茶を一口。ソファーへと体を投げ出してから目を閉じる。ふうぅ。 「確認ですが、これで最後になります」  意を決したかのよう編集が吐き出す。 「はいっ」  と若駒。  遂に判決が下るのだ。若駒の人生に。 「そうですね。感想から入りたいところではあるのですが……」 「はいっ」 「まず聞きたいのは、この短期間で、なにがあったのか、という事です。若駒さん、ようやくですよ。よくやく殻を破りましたね。見事に。長かった。私にとっても」  十年ですから。貴方との付き合いは。  貴方の才能を信じて付き合った、この十年は本当に長かった。  若駒は信じられないという顔になり、どう答えていいのか、全く分からない。いや、ともすれば喜んで良いのかさえも分からない。長い間、ダメ出しをくらい続け、最終的には三行半を突きつけられていた男が、ようやく認められたのだから……。  ハァァ。  お決まりのため息を吐くしかできない、いや、そうは言っても、ようやくかとだ。 「一ヶ月前に持ってきた原稿の書き直しが、これなのかと信じられません。むしろ新作を書き下ろしたと言われても信じてしまうほどです。本当に何があったんです?」  ハハハ。  と、存外なほどの褒め言葉を聞いて後ろ頭を乱暴にかく若駒。 「ありがとうございます。妖しいキノコを売ってそうな不思議な薬局にいってきただけですよ。ハハハ。そこで赤い箱のタバコと出会って……、なんて冗談ですが」  アハハ。 「そんな冗談も言えるんですね。十年も付き合ってきましたが新発見ですよ。というか、その妖しいキノコを売ってそうな薬局でキノコの粉を打ってませんよね?」 「ふふふ。打ってないです。打ってないです。若返りの薬も売って貰えませんでしたしね。まあ、そんな感じですよ。なにがあったというわけでもありません」  アハハと若駒と編集は笑い合った。いつまでも和やかに……。 「そういえば、表題を変えたんですね」 「はい。最後と決めた作品だからこそ、相応しい名前に変えました。どうですか?」 「いいですね。本当にいいです、これ」  応接ルームに、くゆっていた紫煙は、ゆっくりと周りを巡ったあと、その存在は、もう必要ないとばかりに静かに消えていった。まるで彼らの間に在っては、それこそ、お邪魔だと安心したかのように溶ける。原稿が入った封筒を表を向ける編集。 「若駒さん、私は、ずっと期待していたんですよ。だから十年も付き合ったんです。でも、その期待を裏切られ続けましたから、あんな事を言ってしまって……」 「ああ、だからか。これで最後にしてもらってもいいですかというやつですよね?」 「はいっ」 「そうか。期待してもらっていたんですね。そうか。そうですか。……うん。でも、だったら、その期待に応えられてこなかった俺が悪いんです。気にしないで下さい」 「そう言って頂けると心も軽くなります。ただ、これだけは言っておきますね。期待していたからこそ小説の持ち込みだなんて暴挙を、十年間、許し続けたんですから」 「まあ、確かに、そうですね。ありがとうございます。本当に」  と、また顔を見合わせて笑い合った。  そして、  封筒の表に書かれた、原稿の、若駒が書いた作品の表題が大きく存在を主張する。  いくつになっても。  と……。  お終い。
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