情熱の行方 #4 夏

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〈夏⑩〉♡  その言葉は、僕に正しく届かなかった。 樹が僕を拒んでいるようにしか聞こえなかった。 「何で、そんなこと言うんだよっ」  僕は樹の両肩を掴んで詰め寄った。自分の指が樹の体を(えぐ)るように食い込むのを感じた。樹は(おび)えた表情(かお)で僕を見上げた。 「おまえだって、あんなに(よろこ)んでたじゃないか。あれは嘘だったのかよ」 「そんなこと…。だって、このままじゃ、先輩が死んじゃうかもしれないのに…」  冷静に考えれば、樹が僕の体を気遣ってくれているのがわかるはずだった。その言葉の先には、他の方法を探す道もあっただろう。 だけど、僕の気持ちがそこまで追いつかなかった。樹の温もりを失うなんて、耐えられなかった。 そこで初めて、僕は自分が樹にすっかり溺れてしまって、深い底から抜け出せなくなっていることを悟った。 樹が僕の腕の中からいなくなることを想像しただけで、不安が押し寄せてきた。 「勝手に決めんなよ! 僕はおまえが元気になるなら、いくらだってわけてやる。もし、それで死んだとしても、僕はおまえの中で生き続ける。それでいいじゃないか」 そうだよ。おまえを手放すくらいなら… 「泉先輩…」 「…僕は、それでも構わない。そんな訳のわからない理由なんか、聞けるかよ」  机の上にある小刀が目に留まった。 樹に似合わない古びたナイフ。 カッターナイフよりはしっかりした造りで、アウトドアでよく使いそうだけど、樹がそんなものを何に使うのかまったく想像もつかない。お祖父(じい)さんか父親のお下がりだろうか。 僕は乱暴にそれを手にすると、自分に()を向けた。 僕はもう、自分でもどうしようもないほど樹を必要としているし、本気で樹の体を心配していることも伝えたかった。 自分を傷つける度胸なんか、僕にはなかった。それでも樹を失うくらいなら、その方がいいと思ったのも確かだった。 それほどまでに僕は樹に()えていた。 「…先輩、何する気ですか。危ないですよ」  樹が震える手を僕に差し出した。 「それを、僕に渡してください」 「…たとえその話が本当だとしても、どうせ死ぬなら僕の全部をおまえにくれてやりたいくらいなんだ。だけど、おまえを抱けないなら、今すぐ死んだ方がマシだ」 いっそのこと、その方が もう何も考えなくていいのかもしれない。 そんなことがふと頭をよぎった。 さっきまでの幸せな気持ちは冷たくなって、どこかへ消えてしまった。突然の樹の言葉に怖くなり、僕はショックで混乱していた。 どうしてこんなことになるんだ。 僕たちはただ、 お互いを抱きしめたいと思っただけなのに。 僕だって樹を大切に思っているはずなのに、 なぜおまえには届かないんだ。 「先輩…、ダメっ」  一瞬、気が緩んだ僕の手を樹が掴んだ。 はっと我に返った僕は、思わずナイフを握りしめた。腹筋が1回もできなかった樹に、僕は(かなわ)わなかった。 『こんなに吸いとっていたなんて』 樹の言葉を思い出した。 おまえが元気になったのは、 本当にそのせいなのか。 そんな馬鹿なことが─ 僕は夢中で樹の手を振り払った。 「あっ」 小さな叫び声をあげて、樹が床に尻もちをついた。 手にしたナイフの先が、赤く染まっているのが目に入った。樹は右手を押さえてうなだれている。指の間から血が流れているのが見えた。 頭の中が真っ白になった。 僕は、樹に何を… 「樹っ、大丈夫かっ」  僕はナイフを取り落とし、樹に駆け寄った。 情けないくらいおろおろしながら、樹の手を取った。 「ごめんな。おまえを傷つけるつもりはなかったんだ」 「うん…、わかってますよ、先輩…」  樹は泣いていた。 「僕だって、先輩を傷つけたくなかった…」  樹の頬は涙で濡れていて、長い前髪が顔に張り付いていた。こんな時なのに、僕は樹をとても綺麗だと思った。 僕に抱かれて恍惚(こうこつ)としている、あの時のように。 「血が止まらない…」  樹が呟くように言って、僕は現実に引き戻された。 「…どうしよう。手当て、しないと」 「大人に診てもらわなきゃ。母さんに…」 「でも…」 「僕がヘマをしたって言えば、大丈夫。よくあるから…」  怖じ気づいて動けない僕をよそに、樹はふらふらと立ち上がって、両親のいる店に向かった。僕は呆然として座り込み、樹の細い背中を見送った。 床にこぼれた樹の血は、もう乾き始めていた。 大人にどう説明したのかわからないが、しばらくして右手に包帯を巻いた樹が一人で戻ってきた。 「…大丈夫か」 「うん。もう平気」 包帯で真っ白な樹の手をそっと掴んで、両手で包み込んだ。 「ごめん…」 樹はかぶりを振った。 「僕も、(ひど)いこと言ったから…」 樹の言いたいことも、わかる気がした。 だけど、そんな話はにわかに信じられない。 何より僕は、樹を手放すことなんか出来ない。 「でも、先輩の体が心配で」 「わかってるけど、僕には、無理だよ…」 僕はしがみつくように、樹を抱きしめた。
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