96人が本棚に入れています
本棚に追加
〈夏⑩〉♡
その言葉は、僕に正しく届かなかった。
樹が僕を拒んでいるようにしか聞こえなかった。
「何で、そんなこと言うんだよっ」
僕は樹の両肩を掴んで詰め寄った。自分の指が樹の体を抉るように食い込むのを感じた。樹は怯えた表情で僕を見上げた。
「おまえだって、あんなに悦んでたじゃないか。あれは嘘だったのかよ」
「そんなこと…。だって、このままじゃ、先輩が死んじゃうかもしれないのに…」
冷静に考えれば、樹が僕の体を気遣ってくれているのがわかるはずだった。その言葉の先には、他の方法を探す道もあっただろう。
だけど、僕の気持ちがそこまで追いつかなかった。樹の温もりを失うなんて、耐えられなかった。
そこで初めて、僕は自分が樹にすっかり溺れてしまって、深い底から抜け出せなくなっていることを悟った。
樹が僕の腕の中からいなくなることを想像しただけで、不安が押し寄せてきた。
「勝手に決めんなよ! 僕はおまえが元気になるなら、いくらだってわけてやる。もし、それで死んだとしても、僕はおまえの中で生き続ける。それでいいじゃないか」
そうだよ。おまえを手放すくらいなら…
「泉先輩…」
「…僕は、それでも構わない。そんな訳のわからない理由なんか、聞けるかよ」
机の上にある小刀が目に留まった。
樹に似合わない古びたナイフ。
カッターナイフよりはしっかりした造りで、アウトドアでよく使いそうだけど、樹がそんなものを何に使うのかまったく想像もつかない。お祖父さんか父親のお下がりだろうか。
僕は乱暴にそれを手にすると、自分に刃を向けた。
僕はもう、自分でもどうしようもないほど樹を必要としているし、本気で樹の体を心配していることも伝えたかった。
自分を傷つける度胸なんか、僕にはなかった。それでも樹を失うくらいなら、その方がいいと思ったのも確かだった。
それほどまでに僕は樹に飢えていた。
「…先輩、何する気ですか。危ないですよ」
樹が震える手を僕に差し出した。
「それを、僕に渡してください」
「…たとえその話が本当だとしても、どうせ死ぬなら僕の全部をおまえにくれてやりたいくらいなんだ。だけど、おまえを抱けないなら、今すぐ死んだ方がマシだ」
いっそのこと、その方が
もう何も考えなくていいのかもしれない。
そんなことがふと頭をよぎった。
さっきまでの幸せな気持ちは冷たくなって、どこかへ消えてしまった。突然の樹の言葉に怖くなり、僕はショックで混乱していた。
どうしてこんなことになるんだ。
僕たちはただ、
お互いを抱きしめたいと思っただけなのに。
僕だって樹を大切に思っているはずなのに、
なぜおまえには届かないんだ。
「先輩…、ダメっ」
一瞬、気が緩んだ僕の手を樹が掴んだ。
はっと我に返った僕は、思わずナイフを握りしめた。腹筋が1回もできなかった樹に、僕は敵わなかった。
『こんなに吸いとっていたなんて』
樹の言葉を思い出した。
おまえが元気になったのは、
本当にそのせいなのか。
そんな馬鹿なことが─
僕は夢中で樹の手を振り払った。
「あっ」
小さな叫び声をあげて、樹が床に尻もちをついた。
手にしたナイフの先が、赤く染まっているのが目に入った。樹は右手を押さえてうなだれている。指の間から血が流れているのが見えた。
頭の中が真っ白になった。
僕は、樹に何を…
「樹っ、大丈夫かっ」
僕はナイフを取り落とし、樹に駆け寄った。
情けないくらいおろおろしながら、樹の手を取った。
「ごめんな。おまえを傷つけるつもりはなかったんだ」
「うん…、わかってますよ、先輩…」
樹は泣いていた。
「僕だって、先輩を傷つけたくなかった…」
樹の頬は涙で濡れていて、長い前髪が顔に張り付いていた。こんな時なのに、僕は樹をとても綺麗だと思った。
僕に抱かれて恍惚としている、あの時のように。
「血が止まらない…」
樹が呟くように言って、僕は現実に引き戻された。
「…どうしよう。手当て、しないと」
「大人に診てもらわなきゃ。母さんに…」
「でも…」
「僕がヘマをしたって言えば、大丈夫。よくあるから…」
怖じ気づいて動けない僕をよそに、樹はふらふらと立ち上がって、両親のいる店に向かった。僕は呆然として座り込み、樹の細い背中を見送った。
床にこぼれた樹の血は、もう乾き始めていた。
大人にどう説明したのかわからないが、しばらくして右手に包帯を巻いた樹が一人で戻ってきた。
「…大丈夫か」
「うん。もう平気」
包帯で真っ白な樹の手をそっと掴んで、両手で包み込んだ。
「ごめん…」
樹はかぶりを振った。
「僕も、酷いこと言ったから…」
樹の言いたいことも、わかる気がした。
だけど、そんな話はにわかに信じられない。
何より僕は、樹を手放すことなんか出来ない。
「でも、先輩の体が心配で」
「わかってるけど、僕には、無理だよ…」
僕はしがみつくように、樹を抱きしめた。
最初のコメントを投稿しよう!