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#1 初秋
〈初秋①〉
大きな案件がやっと片付いて一段落したのは、9月の末だった。
俺は休みもろくに取らずに出社していたので、さすがにこれを期に1週間の有給休暇を取るつもりだった。
最近バツイチになって今は一人暮らしだし、こんな中途半端な時期に休みを取れる友人はなかなかいない。
さて、何をして過ごそうか。
それはそうと、昨夜風呂上がりに鏡を見て愕然とした。
隈は仕方ないとしても、シワは増え、シミも出来ている。今年は45になる。女性が肌を気にする気持ちが少しわかったような気がした。
あいつもいろいろ取り寄せてたな…
先月別れた妻のことを思い出した。
お互いに嫌いになったわけではなかった。
俺が仕事にのめり込みすぎたのだ。
俺たちには子どもがいなかったから、二人の時間をもっと作るべきだったんだ。妻も仕事を持ってはいたが、帰って来ない夫を待つことにいつしか疲れてしまっていた。
『これじゃ、独身の時よりも惨めだよ』
彼女が泣きながら残した言葉を思い出した。
実際のところ、仕事にかまけて一人の女性として扱わなかったことが、一番彼女を傷つけたようだった。ただでさえ子どもが出来ないことに、周りから心ない言葉を投げかけられていたからだ。
そして彼女は、そばにいてくれる他の男の手を選んで、この家を出ていった。
それがほんの1ヶ月前。
あの頃は仕事の量がピークだったから、寂しさはまぎらわすことが出来ていた。
肩の荷が降りた今は、この家に一人でいると静けさがやりきれない。
いくら自業自得とは言っても。
旅行に行こう
疲れを癒すなら温泉だ
そうしてやって来たのが、このひなびた温泉街だ。
終点のホームに降り立って、俺は伸びをした。
都心から特急で2時間くらいなのに、秋の気配が深まっていた。あちこち歩き回るには、ちょうどいい陽気だ。
連休が終わったばかりなので、旅館の予約は簡単に取れた。のんびりするのが目的だったから、観光名所を巡るつもりはなかったが、気が向いたら足を伸ばす予定だった。
旅館のチェックインを済ませると、煙草を買いにコンビニへ向かった。ついでに雑誌とコーヒーも買って、旅館へ戻る途中のことだった。
駐車スペースの向こうに『薬』の看板が見えた。
都会ならドラッグストアが便利だが、地方ではまだまだこういったこぢんまりとした薬局が重宝されるんだろうな。
店自体は建てられてからずいぶん経っているようだが、リフォームされたらしく、壁は明るい色のサイドボードに置き変わっている。
向かって左手に窓があり、奥の方に『調剤室』と書かれているのが見えた。正面の木製のガラス開き戸が入り口のようだが、チェッカーガラスが嵌められているため、こちらからは中の様子を窺えない。
ただそこに、カラフルな貼り紙がしてあり、思わず目を引いた。
『ハーブ薬湯』
ハーブだと女性向けかな。
紙の色合いもそんな感じだ。
もう少し読んでみようと近づいた。
ふーん
飲むんじゃなくて、風呂なんだ
慢性疲労、肩こり、頭痛、腰痛。
シミ、シワ、胃弱。
見事に全部今の俺に当てはまっているし、それらに効果があると書いてある。温泉みたいなものか。
気休めかもしれないけど、いくらぐらいするんだろう。鏡に映った自分の、くたびれた顔を思い出した。
ろくな食生活をしていないから、胃腸の調子だっていいわけがない。
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