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〈夏②〉
こうして部活動が終わった後に、二人で残って練習することになった。
樹にはまず、腹式呼吸を覚えさせた。
呼吸法を理解していない訳じゃないのだが、とにかく筋力も体力も女の子以下だった。
僕は樹の下腹に手を当てて、声を出させることから始めた。
「喉じゃなくて、ここから出すイメージを持つんだ」
でも、どんなに頑張っても、細い声しか出てこない。僕は初め、ため息をつくばかりだったが、すぐに気がついた。
樹の声はとても綺麗だということに。
そして、音感もかなり良かった。
うーん
やっぱり何かはいいもの持ってるんだな…
この声が埋もれてしまうのは惜しかった。
皆に聞かせてやりたいと思った。
「ほら、頑張れ」
腹筋は膝を立てて僕が足首を押さえ、臍を覗き込むくらいの動きからやらせてみた。5回もやると仰向けになって息を切らしていたが、それだけでも達成感が得られたみたいで、樹はとても嬉しそうだった。
初めは邪険にしていた僕も、何だかんだ素直に頼ってくる樹が可愛く見えてきて、少しでも上手くなって欲しいと思い始めていた。
「声出してみて」
樹の下腹に手を当てて指示を出すと、樹は素直に従った。
「力入れるから押し返して」
「わ…」
掌に力を込めて樹の腹を押すと、樹は腰が引けたような格好になった。しがみつくように僕の腕を掴んでいる。思いがけない力の強さに少し驚いた。
「…どうした」
「…くすぐったい」
樹は堪えきれずにくすくす笑いだした。僕は呆れたが、笑っている樹はとても楽しそうだった。
こんな顔もするんだな
「バカ。真面目にやれ」
急に触れられたことよりも、その手がひんやりと冷たいことの方が気になった。
「体温、低いんだな。つらくないか」
僕が尋ねると、首を横に振って樹は微笑んだ。
「大丈夫です。もう慣れてますから」
そう言って、僕の手をそっと握った。
「先輩の手、温かくて安心します」
男に言われても…と思ったが、樹になら嫌ではなかった。むしろ触れ合ったことに、僕もなぜだかほっとしたのを覚えている。
翌週の昼休みに、先生に頼まれて資料を借りに図書室に行った。用事が済んで帰ろうとした時、少し離れた場所に樹がいることに気がついた。
部活の待ち時間にも、彼はよく本を読んでいる。いつか覗き込んだら『変身』とか『春の雪』とかで驚いたことがあった。
『手当たり次第、読んでるだけですよ』
本人はそう言って笑ってたけど。
そう言えば、彼はいつも一人だ。
樹が誰かと一緒にいるところを、見たことがない。愛想は悪くないし話しかけられれば笑顔で応じるけど、友達はいないのだろうか。休みがちだから、輪の中に入っていけないのかもしれない。
椅子に座って一心にページをめくっている。読んでいるのは小説のようだ。そっと近づいていっても顔を挙げず、僕に気づく気配はない。
僕はとうとう樹の前に立ち、掌を彼の顔の前にひらひらとかざした。
「わっ」
樹が驚いて本を取り落とした。
「泉先輩…。びっくりした」
樹は笑顔になった。
僕は文庫本を拾い上げて樹に手渡した。そのタイトルには見覚えがあった。
「ずいぶん夢中で読んでたんだな」
「あ。これ、僕が好きな作家の小説なんです。この作品だけ持ってなくて、見かけたらつい読みたくなっちゃって」
「へえ。僕もそれ読んだよ」
「えっ、ホントですか」
樹の瞳がぱっと輝いた。
「うん。この人、毎回伏線がすごいよな」
真面目な優等生かと思ったらミステリも読むんだ。意外な一面を見た気がした。僕らはしばらくその作家の本の話で盛り上がった。
予鈴が鳴った。
「ごめん。読書の邪魔したな」
「ううん。話せて楽しかったです。また放課後に」
微笑む樹に手を振って僕は廊下に出たが、ふと思いついて踵を返した。戻ってきた僕を見て、樹が不思議そうな顔をした。
「先輩?」
「…明日、持ってきてやるよ。その本」
言ってから自分が馬鹿みたいに思えてきて、少し後悔した。図書室にあるんだから借りれば済む話だ。
僕が貸す必要なんてないだろ…
でも、樹に何かしてやりたかった。
何か喜ぶこと。して欲しいこと。
樹が笑ってくれるのが嬉しくて、その顔を見たかった。
「ありがとうございます」
樹はふわっと笑った。
「楽しみにしてますね」
その笑顔に救われて、僕はほっと息をついた。
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