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〈夏③〉
全体練習の時だった。ガタンと大きな音がした。
「藤原くん!」
女子の叫ぶ声がした。
樹は床に倒れて動かない。顔色が真っ青だ。
考えるより先に、僕はすぐ駆け寄って声をかけた。
「樹っ」
何度か呼び掛けると樹は目を開けた。
「先輩…」
「大丈夫か。立てるか」
樹はゆっくり起き上がろうとしたが、それ以上は動けなかった。僕は肩を貸すように樹の腕を自分の首に回して、ふわっと抱き上げた。僕が立ち上がると、後ろの方でざわめく気配がしたが、樹の体調の方が気がかりだった。
「先生、保健室行ってきます」
「ああ。頼む」
呆然とする皆に背を向けて教室を出た。
背が低くはないのに、樹はとても軽かった。僕にしがみつくようにして、樹は小さな声で言った。
「…泉先輩。ごめんなさい」
「いいから。黙ってろ」
樹を抱えて僕が入っていくと、養護の星野先生は驚いて急いでベッドへ案内してくれた。
「先生、また来ちゃった…」
樹が情けない顔で言った。
「最近は来ないから、2年生になったら元気になったのかと思ってたのに」
先生も苦笑して、僕をちらっと見た。
「坂本くんだっけ。そっか、藤原くんもコーラス部なんだね」
「やっと顔を出せるようになったのに、迷惑かけてばっかりで…」
樹があんまり肩を落としているので、少し可哀想になった。僕は樹の頭をぽんと軽く叩いた。
「そんなことないよ。樹はよく頑張ってる」
僕が触れた髪に手をやって、樹は一瞬ぽかんとしたが、すぐに顔を赤くしてうつ向いた。
「よかった…」
僕の顔を見てはにかんだ笑顔になった。
「泉先輩に初めて褒められちゃった」
そんな嬉しそうな顔、すんなよ…
僕まで恥ずかしくなってしまった。
それから校内で樹を見かけるたびに、僕は安堵を覚えるようになった。元気に登校してるのを見ると、ほっとする気がした。
樹はいつも恥ずかしそうに、でも嬉しそうに小さく手を振る。僕が手を挙げて応えると、笑顔になる。僕に懐いてくれてるのが、とても可愛く思えた。
「坂本くん。誰に手を振ってるの」
移動の途中、クラスの女の子に声をかけられて、僕はドキッとした。
「そんなに嬉しそうな顔して」
「あ。いや、後輩…」
「あー、藤原くん。あの子綺麗だよね」
「まあ、ね。何、あいつそんなに有名なんだ?」
僕はドキドキするのをごまかしながら話を合わせた。休みがちな樹を、学年が違う彼女が知っていることが不思議だった。
「本人は大人しくて欠席も多いけど、あのルックスは目立つでしょ。それに可愛いし優しいし」
そうなんだ…
ひょろっとして頼りないのかと思えば、自分の意見ははっきり持ってるし、そうかと言って気遣いもちゃんと出来る。
容姿は言うに及ばずだ。
僕の方が樹の魅力に気づかなかったのか。
「でも、あれは恋する瞳だね」
「恋?」
「坂本くんのこと、だいぶ気に入ってるみたいだよ。ふたりともイケメンでお似合いじゃない」
「…って、冗談」
樹は分け隔てなく誰にでも優しかった。僕は他の人より彼と接点が多いだけで、深い意味はないだろうと思っていた。
その時はその子の言葉を、何となく聞き流していた僕だったが…。
期末試験の前で部活のない日のことだった。
急に降りだした雨に、皆が騒いでいた。僕はロッカーから折り畳み傘を取り出して、帰り支度を始めた。
昇降口は、湿気と集まった皆の熱気で息苦しいほどだった。運動部の奴らなのか、雨に濡れるのも構わずはしゃぎながら駆け出していく男子生徒たち。女子は近くのカフェやファミレスで、雨宿りをする相談を交わしていた。その様子を横目に見ながら、僕は靴を履きかえて傘を開いた。
少し先の軒下に樹が立っていた。
空を見上げてため息をついている。
樹の周りだけが3℃ぐらい温度が低い気がして、人いきれから抜け出した僕は肩の力が抜けて、ほっとするのがわかった。
「樹」
僕が声をかけると、樹はびっくりした顔で僕を見た。
「どうした。傘持ってないのか」
「あ、はい」
「じゃあ、送ってやる」
「…ありがとう、ございます」
樹は頬を染めて僕の差しかけた傘に入ってきた。少しうつ向き加減の眼差しがやけに色っぽく感じて、肩が触れただけで僕はドキッとしてしまった。
『あれは恋する瞳だね』
不意に同級生の言葉を思い出して、僕は鼓動が速まるのがわかった。思わず腕を伸ばして傘を樹の方に寄せると、彼と距離を取った。
「…先輩。濡れますよ?」
「僕は平気だ。おまえが風邪ひいたら困る」
「でも…」
「それに女子じゃあるまいし、何でそんなに恥ずかしがるんだよ」
「…ごめんなさい。僕、気持ち悪いですか」
樹がしゅんとなったので、僕は慌てて言った。
「いや、そうじゃなくて。おまえがそんな感じだと、こっちまで恥ずかしくなるんだよ」
言ってる僕も頬が熱くなっていた。
「だって、先輩と一緒に帰れるのが、嬉しくて…」
こんな時、僕は樹が可愛くてどうしようもなくなる。
なぜ、彼に対してこんな感情を抱くんだろう。こんな気持ちは初めてかもしれない。嬉しいのと切ないのとがないまぜになって、うまく説明できない。
樹の素直な言葉に僕は何も言えなくなって、二人で目線を合わさずに、黙々と歩き続けた。
「…話もしなくてもか」
「うん」
僕がぽつんと口にすると、樹は僕の顔を見て微笑んだ。
雨が強くなってきた。
肩を寄せ合うと、半袖からのぞいたお互いの腕が触れて、僕はまたドキドキしながら樹の隣を歩いていた。
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