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〈初秋③〉
オプションで希望する効能がなければ、すぐに薬湯を張りますと言われ、俺は早速頼むことにした。
「入浴後の休憩と着替えのための時間は含まれてませんが、30分以内でお願いしてます。それ以外は時間いっぱい、お好きに使っていただいて構いません。
もし、お気に召さなければ早めにお帰りになることも可能ですが、効果が出るのに少なくとも30分はかかりますので、ご了承ください」
「俺は風呂につかるだけでいいんだ」
「はい。ご希望でしたらマッサージなども承ります。追加料金はかかりませんので、お気軽にお申し出ください」
何だか不思議なところへ来てしまった。
疲れが吹っ飛ぶなら、ありがたい話だけど…
「ここは、君がひとりでやってるの」
「ええ。両親が亡くなってから始めました」
リピーターでも来るのだろうか。
こんなところで、と言っては失礼だが、ふりの客だけでやっていけるのか疑わしい。
「これは僕の道楽のようなものでして。本業は薬剤師です。処方箋も受付けています」
「ああ、そうなんだ」
よく聞かれるのだろう。
みんな疑問に感じるのは同じなようだ。
お湯が張り終わるまでまだ少しかかるとのことで、彼は紅茶を入れ替えてくれた。
「僕は小さい頃から体が弱かったんです。漢方に虚証と言う用語がありますが、まるで僕のためにあるような言葉なんですよ」
『虚証』とはその人の体質を表す言葉で、血色が悪く、胃腸が弱い、冷え性、痩せているなどの特徴を持っている人を指す。
虚弱体質と言えばわかりやすいだろうか。
両親は心配してあちこちのお医者さんを回り、自分たちでも試行錯誤して調合し、彼に飲ませたりもしたが、生きているのが不思議なくらいだったそうだ。
「それでも店を継ぐのは僕しかいませんでしたから、薬学部へ進むことは決まっていたんです」
運動はからっきしだが、本を読むことは好きだし勉強は出来る方だったから、進学に関しては特に苦労はなかったそうだ。
「ただね。僕、ゲイなんですよ」
「えっ」
見知らぬ青年にいきなりカミングアウトされて、俺は不覚にもうろたえてしまった。
「すみません。こんな話、誰にでもする訳じゃないですけど、ご迷惑ですよね」
笑みを絶やさずに話す彼は、少し寂しげに見えた。
その表情が俺の胸に刺さり、露骨に嫌とは言えなくなった。
「まあ、ちょっとびっくりするかな…」
「そのことに気づいたのが、高校の時でした」
自分の恋愛対象を意識し始めた高校2年生の時だった。
以前から想いを寄せていた先輩に告白すると、相手も満更でもなかったようで、付き合い始めてすぐに体を求められた。
「初めて抱かれた時、僕の中に彼のエネルギーが入り込むのがわかったんです」
今まで気だるかった体が嘘のように軽くなり、思考が冴え渡った。好きな相手に抱かれて、生気が漲るなんて願ってもない話だ。
ところが、そう上手くは行かなかった。
何度か関係を持つうちに、今度は相手の方が体力を消耗し、学校に出てこれなくなった。これは自分が相手のエネルギーを奪ったことによるものだと、彼はその時はっきりと感じ取った。
その後先輩は体調を取り戻したが、彼は体を重ねることを、躊躇するようになってしまった。そして、先輩が卒業してからはそれきり会うことはなかったそうだ。
「だから、この方法は気軽に使えなかったんです。うっかりすると、相手の命を奪ってしまいかねないから」
そうは言っても、一度生きる力を得た体は、快楽と定期的なエネルギーを求めるようになってしまった。
そこで彼は考えた。
「一時的にでも体力を増幅させて、その上で関係を持てばいいんですよ」
そして3年ほど前に、自宅をリフォームしてこの店を立ち上げたのだという。
彼が話し終えると、俺は紅茶を一口飲んだ。
口の中がすっかり乾いてしまっていた。
何を話していいのかもわからない。
「ええと…。それを俺に話すってことは、その…」
「気が向いたらで結構です。まだ薬湯の効果も実感されてないですし」
彼は穏やかに微笑みながらそう言った。
元気そうには見えるけど、確かに線も細いし顔色もいいとは言えない。関係を持つことはさておき、生命維持のためにと言われると、一瞬、何とかしてやりたいと思ってしまった。
いや、でも
相手は男だし…
今は考えるのはやめよう
とにかくその気も起こらないほど、俺は疲れきっているんだから
「ただ、そうして他人の生気をいただかないと、僕は生きていけない体なんです。まあ、セックスも好きですけどね」
彼はふわっと笑った。
こんな話をこんな笑顔でするなんて。
苦悩や葛藤だって、数えきれないほどあっただろうに。
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