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〈初秋④〉
電子音のメロディが聞こえてきた。
「お待たせしました。お風呂の準備が出来ました」
「ありがとう」
立ち上がって彼の後に続いた。
店の奥は案外広かったが、廊下の突き当たりのドアを開けると、そこがもう浴室だった。
洗面所と脱衣所には籐タイルが敷かれていた。マットやタオルはベージュで統一されて、やわらかい雰囲気になっている。
「こちらにあるものは、全てご自由にお使いください。何かあれば、そのインターホンでおっしゃってください」
「うん」
「では、ごゆっくり」
一人になると、俺は服を脱いでいった。
タオルとバスタオルが畳んでおいてあったから、ありがたく使わせてもらうことにした。
ガラスのサッシ戸を開けると、ハーブの香りが脱衣所いっぱいに広がった。息を吸い込むと、それだけで何だか気持ちが穏やかになるようだった。
洗い場は全面に滑りにくいシートがひいてあったが、石材調の模様になっていて温泉宿のような雰囲気があった。広さはふつうの家庭の倍ぐらい。女性なら3、4人入れそうだ。浴槽は檜で、高さ数センチの縁を隔てて洗い場から掘り下げた作りになっている。
体を洗ってかけ湯をすると、早速湯船につかって体を沈めた。俺は背が高い方だが、それでもゆったりと足を伸ばせるのは嬉しい。
効果が出るのに
30分はかかると言ってたな
ずっと入ったままだとさすがにのぼせそうだから、半身浴で休憩を挟むようだ。
両手でお湯をすくって顔をこすった。
薬湯は薄くあめ色に色づいて、ちょうどいい熱さだった。どんなブレンドをしたら、こんなにいい香りになるんだろう。呼吸をする度に心が落ち着いていくのがわかる。
これは、期待してもいいかもしれない。
体が少しずつ温まって、汗をかき始めた。
することもなくぼんやりしていると、さっきの彼の話を思い出した。
『僕、ゲイなんです』
ふわっと笑った彼の顔が脳裏を横切った。
両親も亡くなって、こんな寂しい街にひとりで、生まれついての性的指向と体質を抱えて生きていかなければならない。
それなのに悲壮感は微塵もなかった。
諦めと言えばそうかもしれないが、彼はちゃんと自分と向き合って生きているように思えた。
『気が向いたらで結構です』
今までにどれだけの人と肌を合わせたんだろう。
本当の話かどうか疑うことも出来たけど、俺には彼が嘘をついているとは思えなかった。
でも、まずは自分自身が元気にならなければ。
そうするかどうかは別として、彼にわけてやることもできないじゃないか。
30分がたった。
水分の補給もしたくて、バスタオルを腰に巻いて脱衣所へ戻った。籐で編んだ椅子に座り、大きく息をついた。飲み物が何も見当たらなかったので、彼に頼もうとインターホンの受話器を取った。
「ミネラルウォーターなんかあるかな」
『はい。今お持ちします』
受話器を戻し、洗面所の鏡の曇りを拭いて覗き込んだ。
「え、嘘…」
タオルで念入りに鏡を拭き直して、もう一度自分の顔を眺めた。
隈がなくなっていた。
シミとシワの方はいまいちわからないが、こめかみにあった一番大きなシミが薄くなっているような気がした。
体は…?
頭痛はいつの間にか消えていた。肩をぐるぐる回してみると少し軽くなっている。腰の鈍い痛みはまだ残っているようだ。
「本当に効いたのか…」
ノックの音がした。
「はい」
「失礼します。お水です」
そこに置いていくこともできるのに、自分からは遠慮して、俺に開けてもらうのを待ってるかのようだ。そんな彼にいたずら心を起こして、俺は中から少しだけドアを開けた。
彼の細い両腕がペットボトルをすっと差し出した。俺はそれをしっかり受け取った。
「ありがとう」
「いかがですか」
「うん。凄く気持ちいいよ。体も楽になったし」
「それはよかった。どうぞごゆっくり」
声だけのやり取りが続き、ドアを閉める直前に隙間から覗くと、彼と目が合った。
彼は微笑んでそっとドアを閉めた。
結局は30分のクールを3回繰り返した。
さすがに時間をもて余してきたし、腰の痛みもなくなって体が楽になったので上がることにした。
ペットボトルの水を飲み干して、鏡を覗いた。
10歳は言い過ぎか。でもそのくらい
昔の自分の顔を見ているようだった。
心なしか、猫背気味だった姿勢もしゃんとしている。
こんなに効果があるなんて。
俺、あやかしにでも魅入られたんだろうか。
ふと、そんな疑問がわいてきた。
おとぎ話にもあったな。つかまえて太らせて食べられるってやつ。未遂だったけど。
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