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〈初秋⑤〉
汗がひいてから服を着て、店に戻った。
「お疲れさまでした」
彼が笑顔でソファから立ち上がった。
「驚いたよ。本当にすぐ効くんだね」
「喜んでいただけて何よりです。今お茶を淹れますね」
ソファに座って、煙草を吸おうとポケットを探った。
その時、灰皿の吸いかけの1本が目に入った。
「これは、君の?」
「あ。すみません」
彼は恥ずかしそうに戻ってきた。
「煙草と言うより薬草なんです。これでもエネルギーが少し補充できるので」
確かに煙草の匂いはしなかった。この店に染み付いているものと相まって、その煙からは安らかな香りがしていた。
「もらっても?」
「どうぞ。試してみてください。お気に召したらお作りしますよ」
吸い差しを指に挟んだ。
彼の唇が触れていたところから、ふわっと香りが立ちのぼった。口をつけて息を吸い込むと、とても落ち着く。
煙草に慣れきった俺でも、全然物足りなくない。
「煙草の代わりに吸ってたら、禁煙できるかな」
「そうですね」
彼が笑いながら紅茶を運んできた。
香りも味も申し分なかったので、俺は彼のその煙草を頼んで作ってもらうことにした。
「お若くなりましたね」
微笑みながら、彼は紅茶に口をつけた。
「うん。今から徹夜で仕事って言われても大丈夫そうだよ」
俺も一口飲んだ。
最初に淹れてくれたものと少し違う、爽やかな柑橘系の香りが広がった。
「…さっきと香りが違うね」
「わかりますか」
彼が嬉しそうに言った。
「少しブレンドの比率を変えてあるんです。気持ちが落ち着きますよ」
「ずいぶん詳しいんだね。まあ、大学で勉強したなら当たり前か」
「さじ加減って言いますけど、ほんの少しで香りも効能も変わってきます。難しいですが、それが楽しくもあって」
彼は新しい煙草に火をつけた。
ゆっくり吸い込み、煙を吐き出した。
俺は彼のその口元や指先から、ずっと目が離せずにいた。
「…食事はきちんと取っていても、まだ足りないのか」
「ええ。もともと少食ですけど、それを差し引いても追いつかないですね。こんなもので騙しだましって感じです」
彼は指に挟んだ煙草を、俺にちょっと掲げてみせた。
「君が薬湯につかっても、何も起こらないのか」
「ゼロではないですが、現状維持がいいところです。人を介さないと、ダメみたいですね」
彼はいたずらっぽく笑った。
俺は、何をしようとしている…?
自分で自分が信じられなかったが、彼のその瞳に俺は抗えなかった。
「…じゃあ、俺のわけてやろうか」
彼が俺の顔を見上げた。
じっと見つめられて少し恥ずかしくなった。
「その、君さえ良ければ、だけど」
「僕にとっては願ってもないことです。ありがとうございます」
そう言って彼は、またふわっと笑った。
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