96人が本棚に入れています
本棚に追加
〈初秋⑧〉♡☆
いつの間にか、微睡んでいたようだ。
隣で彼も静かな寝息を立てている。
あの後、2回彼を抱いた。
枕元に置いた腕時計を見ると、19時を過ぎていた。旅館に戻らないと、夕食を食べ損ねるな。
「ん…」
寝顔にそっとキスをすると、彼が身動ぎして目を開けた。
「…もう、帰りますか」
「夕食の時間だからな」
「それなら、僕と一緒に食べませんか」
「君と…?」
彼の方から『それ』以外の誘いを受けるとは思ってなかったので、少し面食らってしまった。
「ダメ、ですか」
「いや、大丈夫だ。旅館に連絡だけ入れてくる」
彼が車を出してくれた。
「少し離れたところですが、味は保証しますよ」
「それは楽しみだな」
彼は慣れた手つきでハンドルを操作しながら、俺の質問に答えるようにぽつりぽつり話しだした。
名前は樹、歳は31だった。
思ったよりも歳が上だったが、考えてみれば薬学部を出て数年はたっているのだから、そのくらいでもおかしくはない。
「俺は奏だ」
「奏でるという字ですか。いい名前ですね」
樹は東京の薬科大を卒業したあと、漢方医のもとで働いていたことがあった。両親が東洋医学に詳しかったのもあるが、自分の体質のことも学びたかったんだそうだ。
「薬草や漢方の知識はそこで得たものです」
実際に処方するのは監修した医師だったが、樹のさじ加減は内々ではかなり好評だった。そのままずっとそこで働くことも出来たのだが…。
「破門されたんですよ。僕があんまり淫乱だから」
彼は妖しく微笑んだ。
この容姿でしなだれかかって誘われたら、まず断れないだろう。
それでもそれは
生きていくのに必要だったのでは…
カーブの続く山道を少し登ったところで、樹は車を停めた。木々の合間に隠れ家のようなレストランが見えた。
「両親の知り合いがやってるんです。僕も小さい頃からよく連れられて来ていました」
奥まった場所ではないが、気をつけて見ていないと通り過ぎてしまいそうだ。樹は先に立って店のドアを開けた。
「こんばんは」
樹が呼びかけると奥から男性が顔を出した。
精悍な顔つきだが、生え際に少し白いものが混じっている。俺よりは少し上、かな。
「よう、樹」
笑顔で彼を呼ぶところを見ると、確かに親しげだ。
「久しぶりだな。体調は?」
「大丈夫」
「遠慮しなくていいんだぞ。おまえのことは親父さんから頼まれてるんだから」
「ありがとう、慧さん。焼くだけ煮るだけなら、僕にも料理は出来るから」
慧さんは微笑んで頷いてから、ちらっと俺の方を見た。俺は軽く頭を下げた。
「こんばんは」
「…お客さん? 珍しいな、ここに連れてくるなんて」
「うん。特別な人だから」
「へえ。どうぞ」
少し戸惑うように笑って、慧さんは俺を案内した。
店内は10席ほどのアットホームな造りだった。
日曜の夜だが、席は半分ほどが埋まっているだけだった。
一番奥の窓際の席はついたてが置いてあって、少しプライベートな空間になっていた。
樹はまっすぐにそこに向かい、席についた。
「今日は2人だから取り分けるスタイルにするか」
「うん。でも、量は少なめでお願い。品数が多い方がいいな」
「わかった」
慧さんは慣れた様子で気軽に請け負った。
「いつもお任せなんだ」
「僕が何をどれだけ食べられるか、慧さんが一番よく知ってるから」
「それは心強いな」
慧さんは優しい笑みを浮かべながら、自分の腰の辺りに手を伸ばして言った。
「こんな小さい頃から来てくれて。あの頃は食べたいのに食べられなくて、よく泣いてたな」
「そうだね。今じゃ懐かしいよ」
テーブルのセッティングが終わると、慧さんは厨房に戻っていった。
「雰囲気もいいのにすいてるね」
樹はふふっと笑った。
「ラストオーダーが済んだところでしたから」
「え、よかったのか」
「たぶん。帰れって言われてませんから」
どうやらお互いに、だいぶ心を許しているようだ。子どもの頃からの付き合いなら、家族も同然ってところか。彼がまったくの一人ぼっちじゃないとわかって、俺は少しだけほっとした。
最初のコメントを投稿しよう!