#1 初秋

8/11
前へ
/78ページ
次へ
〈初秋⑧〉♡☆ いつの間にか、微睡(まどろ)んでいたようだ。 隣で彼も静かな寝息を立てている。 あの後、2回彼を抱いた。 枕元に置いた腕時計を見ると、19時を過ぎていた。旅館に戻らないと、夕食を食べ損ねるな。 「ん…」 寝顔にそっとキスをすると、彼が身動(みじろ)ぎして目を開けた。 「…もう、帰りますか」 「夕食の時間だからな」 「それなら、僕と一緒に食べませんか」 「君と…?」 彼の方から『それ』以外の誘いを受けるとは思ってなかったので、少し面食らってしまった。 「ダメ、ですか」 「いや、大丈夫だ。旅館に連絡だけ入れてくる」 彼が車を出してくれた。 「少し離れたところですが、味は保証しますよ」 「それは楽しみだな」 彼は慣れた手つきでハンドルを操作しながら、俺の質問に答えるようにぽつりぽつり話しだした。 名前は(いつき)、歳は31だった。 思ったよりも歳が上だったが、考えてみれば薬学部を出て数年はたっているのだから、そのくらいでもおかしくはない。 「俺は(そう)だ」 「(かな)でるという字ですか。いい名前ですね」 樹は東京の薬科大を卒業したあと、漢方医のもとで働いていたことがあった。両親が東洋医学に詳しかったのもあるが、自分の体質のことも学びたかったんだそうだ。 「薬草や漢方の知識はそこで得たものです」 実際に処方するのは監修した医師だったが、樹のさじ加減は内々ではかなり好評だった。そのままずっとそこで働くことも出来たのだが…。 「破門されたんですよ。僕があんまり淫乱だから」 彼は妖しく微笑んだ。 この容姿でしなだれかかって誘われたら、まず断れないだろう。 それでもそれは 生きていくのに必要だったのでは… カーブの続く山道を少し登ったところで、樹は車を停めた。木々の合間に隠れ家のようなレストランが見えた。 「両親の知り合いがやってるんです。僕も小さい頃からよく連れられて来ていました」 奥まった場所ではないが、気をつけて見ていないと通り過ぎてしまいそうだ。樹は先に立って店のドアを開けた。 「こんばんは」 樹が呼びかけると奥から男性が顔を出した。 精悍(せいかん)な顔つきだが、生え際に少し白いものが混じっている。俺よりは少し上、かな。 「よう、樹」 笑顔で彼を呼ぶところを見ると、確かに親しげだ。 「久しぶりだな。体調は?」 「大丈夫」 「遠慮しなくていいんだぞ。おまえのことは親父さんから頼まれてるんだから」 「ありがとう、(けい)さん。焼くだけ煮るだけなら、僕にも料理は出来るから」 慧さんは微笑んで頷いてから、ちらっと俺の方を見た。俺は軽く頭を下げた。 「こんばんは」 「…お客さん? 珍しいな、ここに連れてくるなんて」 「うん。特別な人だから」 「へえ。どうぞ」 少し戸惑うように笑って、慧さんは俺を案内した。 店内は10席ほどのアットホームな造りだった。 日曜の夜だが、席は半分ほどが埋まっているだけだった。 一番奥の窓際の席はついたてが置いてあって、少しプライベートな空間になっていた。 樹はまっすぐにそこに向かい、席についた。 「今日は2人だから取り分けるスタイルにするか」 「うん。でも、量は少なめでお願い。品数が多い方がいいな」 「わかった」 慧さんは慣れた様子で気軽に請け負った。 「いつもお任せなんだ」 「僕が何をどれだけ食べられるか、慧さんが一番よく知ってるから」 「それは心強いな」 慧さんは優しい笑みを浮かべながら、自分の腰の辺りに手を伸ばして言った。 「こんな小さい頃から来てくれて。あの頃は食べたいのに食べられなくて、よく泣いてたな」 「そうだね。今じゃ懐かしいよ」 テーブルのセッティングが終わると、慧さんは厨房に戻っていった。 「雰囲気もいいのにすいてるね」 樹はふふっと笑った。 「ラストオーダーが済んだところでしたから」 「え、よかったのか」 「たぶん。帰れって言われてませんから」 どうやらお互いに、だいぶ心を許しているようだ。子どもの頃からの付き合いなら、家族も同然ってところか。彼がまったくの一人ぼっちじゃないとわかって、俺は少しだけほっとした。
/78ページ

最初のコメントを投稿しよう!

96人が本棚に入れています
本棚に追加