怒りの宗教

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 その教えというものは、ある種の人々にとっては救いになるのかもしれない。だが、どこか腑に落ちない部分がある。天国が存在するかどうかではない。そんなことは私には分からない。その部分ではなくて、別の部分に。  私は考え、やがて口に出す、途切れ途切れに。 「それは……かなり、まずいことにならないでしょうか。倫理的に」 「と言うと?」 「もし怒りに満ちた人間の方が永遠であるとすると、例えば。……凶悪犯罪を犯して、反省もせず悔いる事もなく、社会を呪い犠牲者を嘲笑う、そんな犯罪者がいたとして。その魂が永遠に残るということにならないですか。そうなると、人間を不適切な欲望や不当な暴力の発露から押し留める規範がなくなってしまう」  私は、男が満面の笑みを浮かべたように感じる。その顔は帽子に隠れて見えなかったにも関わらず。 「素晴らしく道徳的な人間であるようだ、あなたは。……だが、それは。この世界ではない世界が存在する理由が、この世界の秩序を保つためと言っていることにはならないですか。それはいかにも現世利益的であり、この世界での利害に関心が向きすぎている」  私は奇妙な感覚に陥っていた。この男こそが悪魔であり、神や天国の存在、あるいは、超越的な倫理規範の存在を、反転した価値観を植え付けることによって自ら否定するように誘惑してきている、そんな感覚に。 「……それは……ええと」  私は考え、やっと言葉を絞り出す。 「逆のことも言えるでしょう。その怒りの宗教によって救われるものがいたとして、救われてしまえばその魂は消えてしまう。その宗教の存在が、とりも直さず宗教の否定だ。……結局、自分が誰かより救われているという思い上がりが妄想だ。救いなど存在しないこの世界を、正しい生き方こそが救いだと信じて生きること、そういう人間の在り方こそが救いなのではないですか」  それから、その後の記憶はない。
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