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 首筋にふきかかる息を感じ、僕は目を開けた。  バードが目の前にいた。さっきの青年から、彼は猛獣に姿を変えていた。暗がりの中では褐色のビロードが漆黒に見える。しなやかに動く肩の筋肉。エメラルドの色の瞳。動物で言うと、ピューマにちょっと似ているだろうか。だが、はるかに巨大で、はるかに獰猛な顔つきをしている。  僕が目を開けたことで、彼は少しひるんだようすで身を引いた。 「彼女は?」 「眠ってる」  僕は小声で聞いて、バードも小声で答えた。 「マールはおとなしく帰ってくれた?」  僕の質問に、彼は鼻にしわを寄せて笑った。 「彼も眠って、身体を離れていった」 「あんたは残酷なんだか優しいんだかよくわからないな」 「もちろん私は残酷なんだ。耐え難い別離をもう一度作り出すのだから」 「それはどうだろう」  僕は答えを保留にした。少なくともさっきのエストーラは幸せそうに見えたから。  禍神は人の肉を食らう存在だと信じられている。けれども本当は、彼が欲しているのは人の魂の方だ。あるいは生気。生命エネルギー。  彼らは獲物を引き裂くが、本当は命まで奪う必要はないのではないかと思う。彼らに必要なのは生贄の恐怖と苦痛。禍神に襲われた人間は精神を食らいつくされ破壊され、廃人となる。彼らが精神とともに器をたやすく破壊してしまうのは、おそらくは食事のあとに皿を片付けるような感覚に過ぎない。  今、バードは飢えている。中途半端に食事をつまんだことで、耐え難い飢えを一層自覚しているはずだ。目を開ける寸前、彼の牙は僕の喉元にあった。多分僕の喉笛を掻き切ろうとしたのだろう。僕が不意に目を開けたために、彼は気勢をそがれたのだ。 「ユキヤ……」  彼は瞬きして、僕を見た。そのまま彫像のように動かないバードに、苦笑して僕は言った。 「もうじき夜が明けるよ」  これから身に受けることになる苦痛を恐れていないといえば嘘になる。けれど僕はなんでもないことのように笑ってみせることができる。 「慣れているから平気だって」 「引き裂かれることに慣れる人間などいない」 「でも僕は慣れてる」  彼は言葉を失って、なんとも言えない表情になる。 「バード、僕と出会ったときのことを忘れた? あんたは完全に我を失って暴走していた。あんたの通ったあとは屍累々だったよね」  僕の言葉に彼は気後れしたように身じろぎした。 「僕はあんたがそういう風に生きたいなら止めることはできないし、僕ら人間はあんたの食べ物に過ぎないんだから、好きにすればいいとは思うよ。でも、あんたはひどく苦しそうだった。暗闇の底の底でもがき苦しんでいた。幸か不幸かあんたはもう殺戮を楽しむことができない。あんたが惚れた尼さんのおかげでね」  僕は露悪的にそういう言い方をしている。そのことは誰よりもバードにはよくわかっているはずだった。  死にたがっていた娘を前にしてさえ、彼が人を傷つけることが僕は許せないのだ。彼が愛し、振り回され、破滅させられかけた傲慢で鼻持ちならない尼さんと僕は多分、そんなに遠くない。僕は彼の贄だけれども、そのことで本当に傷ついているのは彼のほうだ。  前足をそろえてじっとこちらを見ている猛獣のエメラルドの瞳に、僕はもう一度笑いかけた。 「目、閉じてたほうがいいかな?」 「ユキヤ、済まない」  目をつぶると、すぐそばでバードの声がして、その直後に喉笛を噛み切られた。
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