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エストーラはいわゆる政治犯だった。強固な中央集権制に反対するレジスタンスのメンバーと通じ、情報を横流ししていた。
もっとも彼女自身には政治的な意図はなかった。事情もよくわからぬまま幼馴染の青年を手伝わされていただけだと判断された。
青年は処刑されたが彼女自身は処刑は免れ、禁固刑に処されていたのだという。
今回の禍神への生贄としての白羽の矢が当たったのは、彼女の罪が他の罪人に比べて重かったからではない。彼女がいまだ若く、清らかで美しく、かつ悪辣な犯罪者というわけではなかったためだ。
禍神は穢れたもの、邪悪なもの、醜いものを嫌う。だから生贄は無垢であらねばならない。間違って穢れたものの肉を食らうと、禍神は怒り狂って大殺戮を始めるのだと言われている──。
エジームの思念を読み取りながら、僕はこっそり溜息をついた。人の世に流布する情報の、なんてあやふやで的外れなことか。
禍神の大殺戮の原因は怒りなどではない。激しい飢えだ。飢えて、飢えて、自らの肉を食らいつくすほどの激しい飢餓にさらされたとき、さらに自らの肉を食らい肉体の枷から解き放たれて漆黒の闇の塊と化したとき、"彼"は見境なく殺戮を始めるのだ。ただ、飢えを満たしてくれる存在を求めて。自らの新しい器を形成するだけのエネルギーを得るために。
僕がバードに出会ったのは、21世紀半ばの『日本』と呼ばれていた国でのことだった。その頃僕はただの高校生だった。
あのときバードが肉体も魂も失って災厄の塊と化したのは、彼が恋に落ちたある人間の女性のせいだった。修道女だったらしい。僕が生まれた時代よりもさらにずっと昔のこと。
彼女の魂に彼は恋焦がれ、彼女に乞われ、できない約束をした。2度と決して、人の肉も魂も食らわぬと。
修道女は天寿を全うしたが、そのあと何世紀も、彼は彼女との約束を守り続けた。飢えてやせ細り、飢えて飢えて、飢え死ぬことも叶わず、それでも人は食らわぬ、二度と人に悪行をなすことはするまいと、半ば気がふれながら永らえ続け、最後の最後で自分の身を 食らったのだ。
彼の内奥に渦巻くのはとてつもない負の空洞だ。その深淵を閉じ込めておく器を失って、疫神の本質が解き放たれた。
災厄はある日突然訪れた。それはほとんど何の前触れもなく。
吹き荒れた嵐のような出来事だった。僕が生きた時代はその大きな嵐に飲まれた。
超自然の闇がどこからか湧き出して空を覆い、その場にいて運悪く闇に閉じ込められた人々は無残に身体を引き裂かれて命を落とした。
最初他の大陸で局所的に発生した災厄は、やがて縦横無尽に地上を駆け巡り、日本にも上陸した。
ある日僕は、当時住んでいた町のはずれの小さな駅周辺で、その災厄に遭遇した。高校からもより駅までの短い通学路で、少し前にその場所を通りがかったクラスの友人の幾人かが闇に飲み込まれて落命したあとの光景を見た。
闇は空の高みでその漆黒の翼を広げていた。地上にはまるでハゲタカに食い散らかされたかのような、ズタズタにされた遺体が転がっていた。
僕は友人たちよりわずかに遅れてその道を通り、変わり果てた彼らの姿を直接目にすることとなった。
今でも鮮明に思い出す。
あらぬ方向に捻じ曲がった脚、もぎ取られた両腕、腹部はぱっくりと2つに切り裂かれ、内臓がほぼ食い尽くされ、ピンクの肉片が絡まる肋骨がむき出しになっていた。顔は恐怖にひき歪んで、虚空を睨みあげていた。
通行人の何人かが、転々と横たわる遺体を見て恐慌をきたしたらしく、大声で叫びながら引き返し始める。
人々が引き返す中、僕はその場に佇んでいた。
あたりを見回して、災厄の主の姿を空の高みに見出した。青い空に浮かぶ、しみのようにも見える黒いかたまり。ゆっくりと再び、そのかたまりは降りて来る。目を凝らしているうちにそれはだんだんと広がっていって、視界全体を覆っていく。
僕の後ろから自転車をこいできたヤツが、急ブレーキをかけて方向転換した。
遮光カーテンを引いたように日の光は遮られ、周囲はどんどん暗くなる。
500メートルほど向こうで、逃げようとしていた自転車が何かに躓き横転した。
あたりを闇が押しつつむのを、僕はただぼんやりと眺めていた。
もうじき僕も、目の前に転がる友人と同じ姿になるのだ。それはとても不思議なことだった。恐怖よりも、恐慌よりも、ただ不思議さが僕の内部を満たし、そして──。
僕の意識はなぜかそのとき、"彼"が抱え持つ深い慟哭に行き当たったのだった。
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