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『故郷の土を踏むのは数世紀ぶりだろう?』  町長の家から届けられたワインのグラスを片手に窓から外を眺めていると、バードが不意に声をかけてきた。 「地理的にはそうだけど……」  僕は赤い液体に目を落とし、つぶやくように言った。 「日本人は、もうここにはいないよ」  金色の髪のエストーラ。エストーラの記憶の中の銀髪の青年。ごわごわとした赤銅色の髪をした壮年の政治家カイアル。  だが、僕の生まれた時代の白人達と違って、この街の人々の面立ちは西洋人とも東洋人ともアフリカ人ともつかない。これは何世紀もかけて混血を繰り返した結果であるらしかった。  いまはこの国に住む者は皆色素が薄く、生まれつきの黒髪はいない。エジームは白髪だったけれども、色素が抜ける前はおそらく金髪か薄茶色の髪というところだったろう。  長老エジームは政治家というよりも、学者の長とか神職とかいった立場らしかった。町のごたごたを治める役職の人間は別にいた。  僕はあのあと町長のカイアルを紹介され、彼の家の晩餐に招かれた。  長旅で疲れているからと言ってそうそうに退出し、ワインと水だけを屋敷まで届けてもらったところだ。  疲れているのは本当だったけど、別に長旅のせいなんかじゃない。バード以外と話をするのが久しぶりだったから、人気(ひとけ)に当てられたのだ。 『ユキヤ』 「なに?」 『なぜ、自分の名を名乗らなかった』 「町の人たちがもてなしているのは禍神だろう。つまりあんたのことじゃないか」 『彼らと直接言葉を交わしているのはおまえだろうに』 「僕でない誰かが、あんたの名前を呼ぶのが好きなんだ」  ついでに言えば、バードという言葉の響きが僕は好きだ。もう1つついでに言えば、この時代の人々にとって、ユキヤと発音するのは少々骨が折れるらしい。ユーケアと呼ばれていちいち発音を正すのも面倒くさい。 『バードというのは、そもそもおまえが私を勝手にそう呼んでいるだけだぞ』 「仕方ないだろ? あんたは本当の名前を教えてくれないんだから」 『言ったろう。私に名前などない』  そっけない彼の物言いに、僕は溜息をついて聞いた。 「彼女はあんたのことを一体なんて呼んでたんだ?」 『彼女? どの彼女だ?』 「あんたが惚れてた尼さんのことだよ」 『それは一体何百年前の話だ?』  白々しくとぼけるバードに、僕ははっきり言ってやった。 「何百年経とうが何千年経とうが、あんたは彼女を忘れられない」  バードは黙った。肯定の沈黙。全くわかり易過ぎるやつだ。 「まったく彼女がなんて言おうが何を望もうが、最初からあんたは聞く耳持たずにその尼さんを食っちまえばよかったんだ」  そう、ゴヤの絵に出てくるサトゥルヌスのように、頭からバリバリと。そうすれば、あんな理不尽で一方的な約束にいつまでも縛られて苦しみ続けることはなかっただろうに。  いつまでもいつまでも続く永劫の苦悩。慟哭。絶望。  そもそもそんなものを身に引き受けるだけの価値がその女にあったのか。  内心僕ははなはだ疑問だったけれども、さすがにはっきりとそれを口に出して指摘することはできない。彼がムキになって反論してくるだろうことは、火を見るよりも明らかだから。  人を害さない。傷つけない。果たそうとして叶わなかった約束。それどころか、心を失い自制心を失い飢餓と狂気にのまれ、殺戮に明け暮れた記憶。その記憶は今も彼の心を苛み続けている。  けれどもそのときの僕の言葉は、違った風に受け取られてしまったらしい。 『確かにな』 と、意気消沈した声で、バードは答える。 『そうしていれば、ユキヤ、こんなふうにおまえを苦しめ続けることもなかっただろうに』  バードの言葉には苦渋がにじむ。  僕は肩を竦めた。 「それはむしろ、肯定的に受け止めてほしいな」  今でも彼は、叶う限りは彼女との約束を守り続けていたいと願っているのだ。僕との共生は今の時点で考えうる最善の折衷案だと思う。彼は人を殺めることなく、しかも飢えずに済む。  彼にとって僕は生きた常備食だ。いわばハチに寄生されたアゲハの幼虫のようなもの。  アゲハの幼虫はハチの成長に伴い少しずつ食われ、最後には弱って死んでしまう。決して羽化することのないアゲハの蛹から飛び立つのはハチの成虫だ。  あるいはバードと僕の未来にも、そんな結末が待ち受けているのかもしれない。けれども少なくともそんな未来が近づいている実感は全くわかない。なぜなら彼の傍らで僕は、人としての寿命をとうに超え、何世紀もの時を生きながらえてきたのだから。それもまったく齢を取らず、最初に出会った16のときの姿のままで。  僕はバードとともにあることで、ある種の強靭な生命力を与えられている。だから時折飢えた彼に食われても死なない。人間に火を与えたプロメテウスが夜毎ゼウスのつかわした鷲に食い尽くされても再生し、決して死なないように。  自由に姿を変える力を持つバードは、いまは褐色の翼の形をとって、背中から僕の脊髄と神経系統に食い込んでいる。彼は僕の意思を無視して僕の身体を自由に操ることができるし、好きなときに僕から離れて独立した人間や猛獣の姿をとることもできる。  僕の方からは、彼を切り離したり呼び寄せたりのコントロールは全くできない。この状態を寄生されているというか、憑依されているというか、支配されているというかはよくわからない。だが、少なくとも彼は全く支配的ではない。  僕らは普段から、さまざまな言葉を交わす。そして僕は、彼に対してほのかな友情のようなものを感じている。  しばらくの沈黙のあと、小さく彼はささやいた。 『感謝しているよ、ユキヤ』
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