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泡沫のすずめ
真島宏紀は困惑していた。原因は昨晩のことであった。郊外にある、栄えているとも、寂れているとも言い難い中途半端な田舎の繁華街で、同級生である橘みのりが見知らぬ中年男とキスをしている現場を目撃してしまったのだ。
高校生ともなれば、いわゆるお付き合いとやらをしている相手がいても不自然ではないだろう。しかし真島には唇を合わせている相手が、恋人というには老け込んでいるように見えたのだ。時間は午後十一時を過ぎた頃で、すっかり夜の帳は降り切っていた。歳の離れた恋人という選択肢も無いわけではないが、この時間まで未成年者を、それも女の子を連れ歩くような中年男がまっとうな恋人だとは誰だって思わないだろう。
大人の恋愛とはそういうものなのだろうかと真島は混乱したが、どのみち、子どもの真島には理解が及ばない。とっさに隠れたのがよかったのだろうか、幸い真島の存在は橘に認識されていないようだった。あの男と橘の関係はどういったものなのか。
大方予測はできるが、それが真実だという確証はどこにもない。本当に愛し合ったカップルかもしれない。もしそうならこの憶測は野暮というものだろう。真島の偏見と憶測が真実であるとは、流石に言えない。しかし真島の主観ではあるが、純粋な愛の温床という雰囲気は、微塵も感じられなかったのもまた事実だ。
夜、繁華街、男と少女。あまりに不純だ。これだけカードが出そろっているのにもかかわらず、変な想像をするなと言うほうが無粋ではないか。
そんな現場を目撃した昨日の今日、橘に対して一切の気まずさが無いとは言い切れないが、真島はいたって普通に登校した。平生から親しくしていたわけでもない相手に、学校を休まなければいけないほどの気まずさを感じるかと問われても、それもそれであり得ないものだ。
出席日数は成績に多少なりとも反映されるものでるが、そんなつまらないことより、真島としてはさぼりたいときにさぼれるだけの日数を残しておかなければいけないものだ。こんなことで浪費している場合ではない。
そもそも、橘に親しい友人はいるのだろうか。彼女をただクラスが同じであるだけの存在としか認識していなかったせいか真島は、彼女の隣に特定の人物がいる場面をほとんど見たことがなかった。だれともつるまず、彼女はたった一人で学校生活という名の村社会で生きているというのだろうか。
表立って、彼女を排斥しようとする空気は感じられない。しかし、このクラスの女子が、積極的に橘と仲良くしようとしているようにも見えなかった。好きの反対は無関心、というのは概ね事実だろう。いじめてやろう、などという悪意に晒されるほど、誰も橘に興味を引かれていなかった。
真島自身もクラスの女子たち同様に橘に関心がなかった。それに、おそらく彼女自身も、クラスメイト達が無理に押し付ける仲良くしよう、なんて同調圧力という気遣いは求めていないだろう。そのような気遣いは、気遣いという皮を被せて、綺麗にデコレーションしてみせた、ただの憐みだ。
そんなものを望む人間は少数派だと真島は思っていた。少なからず、橘がそのような陳腐で、かつ、慰めや見下しを含蓄したようなものを欲する人間のようだとは、真島は思えなかった。真島も橘など今まで気にも留めたことがなかったが、昨夜のことがあっては、彼女に対していつも通りの、それでいて単純な、関心を向けないということは不可能だろう。
好きの反対は無関心。真島は橘のことが好きかと問われれば「わからない」と答えるだろうが、無関心ではいられなくなってしまった。彼女に感情を動かされている事実は変えることができない。
橘の座席は真島の右斜め前である。好都合なのか、不都合なのか。真島の好奇心を満たすために、彼女を観察することにおいては好都合だが、授業に集中できなくなってしまうという面では不都合でしかない。
しかし真島は、この好奇心を満たすために彼女を観察するというのも下品な話だな、と思った。そうは言っても真島自身十七歳の思春期真っ盛りの少年であり、やはり異性というのは気になる存在である。
案の定、授業が耳に入ってくることはなく、真島の視線は教科書と、ノートと、橘を往復していた。どうにか彼女にこんな姿を見せまいというちっぽけなプライドが、彼をそのような挙動不審な行動に走らせる動機だった。
午前の授業が終わり、皆が一斉に昼食を摂り始め、真島も同じように母親が朝から準備した弁当を、流行しているスクエア型のリュックサックから取り出した。教室に様々な食品の匂いが充満している。この匂いがどうも苦手な真島であるが、教室以外に飲食が可能で、かつ空調が効いている場所などあるはずがなく、その点には目を瞑るようにしている。
ふと橘の座席に目をやると、座席に彼女の姿はなかった。そもそも教室に居ないようだった。彼女は普段から教室で昼食を摂っていなかっただろうか、はたまた今日が異例の事態なのだろうか。今まで過ごした昼休みの記憶をたどっても、橘がどのような行動をとっていたか、という情報は得られなかった。いや、そもそも、記憶の中に存在していなかったのだろう。
関心のない人間はいてもいなくても同じなのだな、と真島は再確認して、自身の弁当箱を開けた。いつも通りの、それなりに栄養バランスが考えられた手作りの品と、効率という名のもとに存在している冷凍食品が混在した真島の弁当に、これまたいつも通り箸をつけた。
冷凍食品の唐揚げを口の中に帆織り込んだその瞬間、真島の肩を乱雑に叩く人物が現れた。そして真島は肩を叩かれて初めてその男が近くに寄ってきていることを知った。
「よう、今日も俺を待たずに一人で飯食い始めて、たまには友達を大事にしろよな」
「なんだよ、もっと普通に声をかけられないのか」
「どうせお前無視するだろ、いくら幼馴染ったって寂しいもんだぞ」
寂しいとは真反対の、がはは、という擬音が聞こえてきそうな、漫画的な笑顔を浮かべた小学校からの腐れ縁、中村慎吾はクラスが離れたのにも関わらず、一学期も終わろうとしている今でさえ真島のクラスまでやってくるのだ。なんと不毛、時間の無駄、とも思えてしまうが、なんだかんだこの関係性を気に入ってしまっている真島は彼を遠ざけることもできずに、やはり腐れ縁として繋がったままだった。
「なんか、お前今日変だな」
「変って、ひどいな」
中村も購買で買ったであろうパンをかじりながら、真島に話を振り続けている。返答に面白みがあるわけでも、真摯に対応するわけでもない真島に対してこの調子であり続ける中村は
「いやさぁ、なんていうか、無気力で何もしたくありませーん、って感じじゃん、いつも。それが今日は目が死んでないんだよな」
「いつもは死んでるのかよ」
「死んでるぞ」
「ひでぇ、俺はいつでも真剣に生きてるのにな」
真剣、なんて言葉は真島の人生の辞書に存在しているかどうかも怪しい単語を投げかけることができる、中村はそんな存在である。近い、遠い、それだけでは言い表せない、そんな中途半端で、微妙な距離感が心地よい、そんな関係だってあるだろう。
「へんな真島、でもまぁ俺には関係ないけど」
「お前も大概へんなやつだよ、ほんと」
「僕は凡人だよ、変人とか、頭がおかしいとかよく言われるけどさ」
「変人は変人を自覚しない。お前はその典型例さ」
昼休みを終えるチャイムが校内に響き、中島は急いで隣のクラスへと戻っていった。午後の授業が始まるが、やはり食後というものはなにか行動を起こすには不向きな時間だろう。緩やかな眠気と、元来持ち合わせたやる気のなさが相乗効果を生み出し、真島を眠りの世界へと誘おうとしていた。
太陽は高い位置から僕らの教室を照らし、初夏の昼下がりをいささか表現している。空調管理はしっかりとされているにも関わらず、刺すような日差しが窓越しにも関わらず熱い。午後二番目の、本日最後の授業は現代文だった。最後の授業くらいは真剣に聞こうと黒板を睨んでみても、やはりつまらない。午後の現代文の授業なんて、どうぞ寝てください、と言っているものだと真島は声を大きくして主張したい。
ゆったりとした教師の声も、エアコンが稼働する音も、真島にとってはただそこにある何の変哲もないただの音としてそこに存在しているだけにしか感じられなかった。ごうん、ごうん、というエアコンの音の合間を縫うように夏目漱石の「こゝろ」を読み上げる教師の声はやはり眠気を誘うものでしかない。適度な生徒の私語や、ノートを捲る音、心地いいような、悪いような、そんな音の羅列。
真島は夏目漱石にも、太宰治にも興味がない、精々スマートフォンのゲームをたしなむ程度のつまらない人間だ。それは彼自身も自覚しており、時折そんな自分に苛立ち、早くこの世を去ってしまいたいと思うほどだった。
価値のある人間とは、豊かな人生とはどのようなものなのか。誰かを愛すること、お金を稼ぐこと、高い地位と名声を手に入れること、どれも真島とは無縁だろう。それなら真島が生きている意味などあるのか。ただ生を消費するだけの人生にスパイスが欲しい、なんて我儘だろう。
やはり授業はつまらないので、はやく終わらないかな、なんて、真島は何もない放課後へ思いを馳せながら瞼を軽く閉じた。
意識しなければ、世界など存在しない。真島が生きるこの世界は、真島が目を開いた瞬間にのみ存在している、のかもしれない。そうであってほしい、という願望だ。生きていているのは辛い、こうやって目を閉じて眠っているあいだのみ平穏が訪れる、というのは真島の持論だ。
眠りとは小さな、繰り返す小さな死なのかもしれない。毎日一度死んで、生き返る。それは捉えようによってはポジティブで、何度だってやり直しができるというメッセージだ。
しかし、こんなのはただの地獄でしかないと真島は思うのだ。なぜ毎日死んで生き返らなければいけない、そのまま死なせてくれたらいいものを。人間という生き物は、平均的にそんなことを約八十年、約二万九千二百日繰り返す。こんなの正気ではない。
「真島くん、教科書八十五ページの三行目から朗読してください」
真島が思うよりも、この世は甘くはない。眠りの世界へ誘われようとしていた彼を現実世界へと引き戻した教師の声は、真島を見せしめにするものだった。教科書さえ開いていなかった真島は、八十五ページを大急ぎで開いているみっともない姿をクラスメイトに晒し、教師はやや呆れたような表情で「早くしなさい」と言うだけだった。
―早く授業終わんないかな
凡庸で、限りなく怠惰な真島は、教科書八十五ページの三行目を探しながらそんなことを考えていた。クラスメイトはくすくすと笑うものや、興味がないのかぼんやりとよそ見をしている者、真島と同じように居眠りをする者など様々だった。運悪く教師の視界に入ってしまったのがよくなかった。
すべての授業を終え、さらにショートホームルームが終わると、掃除当番でない生徒はぞろぞろと教室の外に出始めた。部活動をしている者は各々の部室へ、それ以外の者は昇降口へ。帰宅部の真島は昇降口へとまっすぐ向かった。
高校生活が始まったばかりのころ、部活動へ向かうクラスメイトの背中を眺めていると
この分かれ目が青春の裂け目なのではないかと思っていたが、今はそんな感傷さえ持ち合わせていなかった。さて、帰るとしようかと真島は三十六と番号が振られた靴箱からスニーカーを取出し、乱雑に地面へ投げつけた。上履きからスニーカーへと履き替えれば、気分スイッチは放課後だ。
放課後と言ってもただ家へ帰るだけなのだが、今日は何の予定もないからこそゆっくりできるな、と心は躍っていた。小遣いを貯めて買った黒い腕時計を見ると、針は十五時三十一分を指していた。あと十分で電車が来てしまう、急がなければと真島は焦りながら学校を後にした。
この電車を逃すと二十分も待たなければいけない、田舎町ゆえの電車問題というものだ。それだけは避けたかった。学習塾に行かなくてよい平日の夕方を無駄にしたくなかったのだ。普段激しく使うことのない心臓と肺は焼け落ちそうだ。食道なのか気管なのか、どちらでも構わないが、どこもかしこも火傷をしたようにちりちりと痛んでいる。しかし残念ながら、消費した労力は虚しく、電車は目の前で走り去ってしまった。
無念だ。無念でしかないが間に合わなかったものは仕方がない。真島は荒れた呼吸を正しながら、体重をベンチに任せるようにどさっと腰かけた。嫌になるなぁ、と思いを抱えながら、まだ整わない呼吸に苛立ちながら空を見上げた。飛行機雲が浮き上がった空は青く、ずっと眺めていれるものではなかった。眩しすぎて目の奥が痛んだ。夏は日が長いため、夕暮れ色に染まるにはもう少し時間を有するだろう。
ホームには次の電車に乗ろうと時間を合わせてきた人が増えてきたようで、にわかに騒がしくなり始めている。あと五分ほどだろうか。ベンチに座っていると、立って電車を待つ人間がよく見えるなとぼんやり思い、同じ制服を眺めながら真島は電車を待っていた。下級生だろうか、上級生だろうか、知らない顔ばかりだ。
知っている顔はないかと辺りを探っていると、タイミングがいいのか、悪いのか、このところ真島の興味を引いている顔を発見した。橘だ。もとより同じ方向だということは知っていたが、こうやって発見したのは初めてのように感じた。
おそらく同じ電車に乗り合わせるのは初めてではない、しかしその時は彼女に関心がなかったせいで、ノイズを消し去るように彼女の存在を視界から消し去っていたのだろう。俯き気味にスマートフォンに視線を落とす橘の表情は、少なくとも明るくはなかった。どこか影を孕んでいるように真島には思えた。もとより快活な表情をするタイプではないし、真島も彼女が心から笑っていると見える場面を教室で見たことがなかった。
常に表情筋が硬直しているような、そんな顔ばかりだったように真島は記憶している。しかしいつものゼロの印象も与えない表情が無色だとすると、この表情は藍や紫なんかの含みのある色だと感じた。
カァン、カァン、と電車の到着を告げる音が響き、橘はスマートフォンの操作をやめて電車が向かってくる方向を見つめはじめた。真島もベンチから立ち上がり、電車に乗り込もうとする人の列に加わった。この時間は帰宅部の学生が一番多く利用し、他校の生徒も使う沿線のため非常に混雑する。
席に座ることはできないだろうと覚悟はしていたが、やはり真島だけではなく橘も座席争奪戦に負けたようで、電車の扉にもたれかかりながら立っていた。ガラス越しに青空が見え、空と彼女の暗い表情がちょうどよいコントラストを生み出していた。そして真島は、なぜか目をそらすことができなかった。どこにでもある風景だ、それは真島本人とて理解はしている。しかし、やはり目を離すことができずに橘を見つめていた。
真島は本能的という表現が的確なほど、なにかの引力に無理に突き動かされるように、彼女の動向が気になった。まるでストーカーではないか、と理性でその感情を抑え込もうと一度は試みたが、その努力は空しく、真島は橘を尾行することにした。真島は彼女の邪魔をしたいわけではなかったからだ。ただ気になって仕方がなかった、これは下世話な好奇心だろう。
橘が電車から降りたことを確認し、真島も車両から飛び出した。そこは、あの日彼女を見つけた、繁華街の最寄り駅だと気付くのに時間はかからなかった。多様な居酒屋や、所謂そういう飲み屋や、マッサージや添い寝をする店も多く集うため、下卑た雰囲気を纏うこの場所だが、日が高いうちは若者がたむろしていることが少なくはない。
二十四時間営業のファストフード店が団子のように固まっているせいだろうか。真島と同年代のまだ制服を着たあどけない少年少女や、行き場でもないのか、と思ってしまうような大学生があてもない会話を繰り広げている。なぜ橘はこんな場所に用があるのだろうか、それも一人で。友達なんて、いるように見えないのに。と思っていたら彼女が巨大チェーンハンバーガー店に入っていく姿が見えた。すぐに真島が店に入ってしまうと彼女と鉢合わせる可能性があるので、二十分待ってから入店した。
レジへ向かおうとすると、店員用の制服を着た橘がレジを操作し、愛想をふりまいていた。教室では見たことのない表情をしていて、それが仕事用の作り物だとしても、この場にいる人間すべての記憶が消えてしまえばいいのに、と無意識のうちに考えていた。
―なんだよ、その顔
不可解な感情だ、こんなものは知らない、と真島は心の中で首を捻った。なんだかわからない霧のような、そんなものが彼の感情を彼自身にさえ理解することが困難だった。
橘がレジに立っている以上、この店で注文をすることはできないので、真島は軽く舌打ちをしながら自動ドアの外へ出た。
そうはいっても諦めの悪い真島は、ハンバーガー店の前にある道路を挟んだところに立っている、お洒落なチェーンコーヒーショップで橘が店を出てくる瞬間を待とうと試みた。少しでも気を紛らわそうと、あえて少し価格帯が上のカフェで一番安いアイスコーヒーを注文したが、真島にはまだブラックコーヒーの魅力が理解できない。とりあえず苦みを消すように、フレッシュとシロップをありったけグラスに注いで、外をよく見通せる窓際の席を陣取った。
そして彼女が働くハンバーガーショップをじっと見つめて、目の前を横切る自動車を疎ましく思いつつも、少し汗をかいたグラスに淹れられたコーヒーをちびちびと啜りながら、橘を待っていた。長時間同じ場所にとどまり続けるのは苦痛ではあるが、彼女の近くに自分自身がいると考えると、下着の中におさめられている性器は熱を帯びた。真島は自身のこの感情をどう扱えばよいのか、まるで子供がショッピングモールで迷子になった時のように、右も左もわからないでいた。
午後七時を過ぎた頃、橘は店から出てきた。そのまま駅に向かうのかと思われたが、駅とは真反対の方向に歩いて行ったので不審に思った真島じゃ慌ててカフェを後にして彼女を追った。空の色はちょうどラベンダー色になっていて、夜の明かりがともり始めた街は橘によく映えていた。とても綺麗でマネキンのようにガラスのショーケースに飾って、自身の所有物にしたいという思いが真島の中にふつふつと湧き上がってきた。
気付かれないように音を殺し、姿を隠しながら橘の後をつけてたどり着いたのはラブホテルだった。ごてごてとした過剰な装飾に隠し切れない年季、センスのないホテル名。いまどき「べんきょう部屋」にハートマークは、いけてないどころか、一つの時代を巡っておしゃれなのかもしれない。同級生がこんなにも下品で、みだらな場所に足を運ぶという事実を知って、真島は今までにない興奮に包まれた。
しばらくすると細身で長身な男が現れた。例にも漏れず「おっさん」と呼ばれるであろう年齢に達した男だった。
「みぃちゃん、ごめんね遅れて。待ったかい?」
「ううん、全然。お仕事大変だったんでしょ」
「まぁね。あ、そうそう、お金は中でいいよね」
男は、くいっと、親指でホテルを指しながらそう言った。
「うん、はやく入ろう」
可愛らしい笑顔が男を煽ったのか、その男は自身の唇で橘の柔らかな唇をふさいだ。艶めかしい、いやらしい、それでもなんだか美しい。真島は、そんな橘から目が離せなくなってしまった。
その瞬間橘と目が会ってしまった。気付かれたのだ。その視線に耐えられず、すぐさま逃げ出した。日が暮れ、人が増え始めた街中を様々な人間にぶつかりながら、思いっきり走った。なぜ、いつ、どこで気づいたんだ。もしかすると足音で誰かが後ろにいると勘付かれてしまったのだろうか。三メートル、四メートルも離れていたのに足音で気づくだろうか。いくら考えても見つかってしまったものは仕方がない。
脳みそがぐちゃぐちゃになるまで悩んだとしても、事実は一ミリメートルも動かせない。橘が何かしらの行動を起こさなければこちらも何もしない、それでいいじゃないか、と真島は思った。駅に着くころには、ワイシャツもスラックスも、全てが汗まみれになっていた。
家に着いたのは午後八時を過ぎた頃だった。真島の母親はすでにパートタイムから帰ってきているのか、夕食の準備を終えて真島とその父親の帰りを待っていることだろう。帰りの遅い父親は一人寂しく食卓に向き合うため、母親は真島とだけはせめても、と一緒に食事をとりたがる。しかし真島としては、食事どころではないのだ。
「母さん、先シャワー浴びてくるから、飯は後で食う」
真島は玄関口から母親にそう言い残して、靴もそろえず家に上がった。まだ脈拍は落ち着かない。橘の表情や視線、唇が忘れられない、意識の奥深い所にこびりついて一向に離れようとはしてくれないのだ。しばらく玄関に突っ立っていたが、ここに立っていても意味がないと思い、靴を脱いだが、それを揃える余裕はもはや真島にはなかった。汗が張り付いて不快な衣服も、全て脱いでしまいたいと、迷いなく風呂場へと向かった。
軽くシャワーを浴びようと、シャツも、スラックスも、下着も、全て洗濯籠に放り込んで、真島自身は暖かいシャワーに身を任せることにした。こんなわけのわからないもの、シャワーで洗い流せたらいいのに、なんて楽観的とも、怠惰とも言える考えが真島の胸中を支配していた。しかし現実はそうもいかないことを十分に理解はしているため、ひとしきり体中を洗ったのちにシャワーハンドルを捻って湯を止めた。乱雑に濡れた髪や体を拭いて、脱衣所に置かれている下着と部屋着を適当に見繕い、着替えて自室に急いで入った。
煩悩なんて、シャワーで洗い流せるはずがない。ベッドに腰をかけた橘は、まだ着替えたばかりの部屋着と、トランクスをずらして自身のペニスを露出させた、そして橘を思い出しながら、あの唇、視線、四肢、全てを網膜にもう一度再生するように思い出しながら、緩やかに立ち上がった性器に触れた。
教室での橘を、電車での橘を、ラブホテル前での橘を、それぞれの彼女を思いだしながら、徐々に激しく、カウパーでペニスがでろでろになりながらも、真島は自身の性器を愛撫し続けた。時々緩急をつけながら、達しそうになったら動きを止め、時間をかけて記憶の中の橘を楽しんだ。妄想の彼女はクラスの女たちとはすべてが違い、汚いはずなのに、神聖なものだと感じた。
先走りのせいで、自身の指先はこの上なく汚れたが、体は正直に反応した。この行為を楽しもうとするあまり焦らしすぎたのか、裏筋を軽く撫でるとあっけなく達した。手のひらに吐き出された白濁を眺めながら、真島は彼自身を嫌悪した。この時まで、自分自身の内部にこのような感情があると、彼は知らなかった。所詮、真島もただの男だったのだ。ティッシュペーパーで精液をふき取って、くしゃくしゃに丸めてゴミ箱に放り投げた。少しだけ、心の隅っこが黒ずんだように思えた。
事を終えた後、無気力さを振り払うように、しかしベッドに寝転びながら時刻を確認するべくスマートフォンのロック画面を表示した。まだ午後九時、真島が思っていたよりも時間の流れはゆっくりだったようで、安堵したように再びベッドに体を預けた。
特にやることもないし、といつものように無料通話・メッセージアプリを開くと、見知らぬアカウントからのメッセージを受信していた。誰だろう、と思いながら真島はトーク画面を開いた。
「明日七時、櫻野駅で待っています」
―誰だろう、こんなメッセージ送ってくるなんて
櫻野駅とは真島が通う学校の最寄り駅だ。となるとこのメッセージの送り主は真島と同じ学校に通う生徒であると推測出来る。アカウント名を見てみると「M」と表記されてあった。「M」から連想される名前など知り合いにいただろうか。M、エム、えむ……ま、み、む、め、も。
その瞬間、真島は息をのんだ。
橘みのりだ。差出人が分かればこのメッセージの意図もわかる。さしずめ、呼び出して口止めしようという魂胆だろう。差出人が分かったからよかったものの、分からなければただ不気味なだけだ。メッセージの最後に名前くらいは書いていてもらいたいものだと真島は思ったが、それ以上にどのような口止めをされるか、情報を引き出せるか考えただけでわくわくした。七時に小塚東駅と、なるといつもより二本ほど早い電車に乗る必要がある。メッセージには「はい」とだけ返信しておいた。
翌日の午前七時ちょうど、真島は駅のホームに立っていた。まだ朝早い時間のため、普段なら混み合い、騒々しいホームは、まだ閑散とした雰囲気を纏っていた。
ホームを少し歩いていると、目当ての人物らしき人影がベンチに座っているのが見えたので、あえてゆっくりと近づいた。真島より一本早い電車で来たのだろうか、ベンチに腰かけている橘みのりの額はほんの少しだけ汗ばんでいるように見えた。
声をかけようと思い口を開いた真島だったが、先手を取られ、先に言葉を投げかけたのは橘だった。
「来ないと思ってたわ」
「呼び出しといてそれは酷くないか?」
「だって本当に来ないと思ったんだもん」
二秒ほど沈黙を挟んで、二人の間に流れる空気を打破するように、再び橘が声を発した
「昨日の事、誰かに話した?」
「いや、話してないよ」
「……そう、それならよかった」
「別に先生とか親にチクろうとか思ってないから。たださ、橘はあんな遅い時間に何してんの?」
「言わなきゃわかんない? 真島君は、そこまで鈍い人だと思ってなかったんだけど」
しっとりとした視線は意識を絡め取り、目の前に存在する橘という女から目を離せなくなっていた。彼女の言葉は、真島の脳内に存在していた憶測が間違いではないと、証明していると同じ意味を持っていた。
「まぁ、フツ―の感性を持ってるなら引くよね」
「びっ……くりはした」
「別にいいよ、オブラートに包まなくても。軽蔑してる?」
「別に……」
真島は嘘をついた。初めてあの場所で彼女を見つけた瞬間、腹の底から湧いてきて、なおかつ自身で認識することができた感情は軽蔑だった。しかし、それだけではなかった。蔑みと同時に心に住み着いたものは、そんな単純で、見下したようなものではない、もっと不気味なものだった。
その気持ち悪さが軽蔑の根源なのかもしれない。けれど、どの感情を本人へとぶつける度胸は持ち合わせていなかった。所詮人間はそんなものだろうと、自分自身を正当化しようと試みたが、ただ虚しくなるだけだった。
「私は真島君がどう思おうと知ったこっちゃないけどさ、私には私の事情があるの。だからね、昨日見たことはこれからも、誰にも話さないでほしいの」
言葉の外面は頼みごとのように見えるが、これはれっきとした命令だろう。表情、視線、声色、橘から発せられるすべてがそれを雄弁に語っていた。
「でもさ、ああいうこと、やめたほうがいいと……」
「やめたほうがいいって言いたいの?」
「あたりまえだろ、あんなことやめた方が絶対にいいだろ」
「あのねぇ、私だってそんなことは分かってるよ。でもさぁ、やんなきゃいけない、そういう事情があるって、なんで察せないかな。私には私の事情があるって言ったじゃん。それにさぁ、私の「あれ」をやめさせたところで、あんたに何ができんの?何も知らないんだったら口出さないでよね、迷惑だから」
真島は何も言えなかった。真島は正しいことを言っただけで、悪いことをしているのは橘の方だ。しかし、真島は彼女になんて声をかければよいか分からなかったのだ。橘の迷惑という言葉は、「偽善者のくせに口を出すんじゃない」と言われている気分にさせた。何ができる、世間一般の常識では彼女を救えない。救おうと思うこと自体がおこがましいのだ。そして、心のどこかで自分が彼女を救えると思いあがっていたことが急に恥ずかしくなった。正論は、ときに正しさとはイコールではないのかもしれない、と真島はそのとき初めて思った。
「そろそろ次の電車が来るし、私は先に行くから。真島君も早く行きなよ」
真島が駅の改札から出たのは、橘が去った五分後だった。
教室にたどり着いたとしても、じりじりと照りつける太陽が窓越しに肌を焼く。随分と暑くなったものだ。この気温では授業に集中することは不可能だ。
一限目の授業が始まっても、やはり授業を聞くことが億劫になったので、ちらりと橘の方に視線を合わせた。大人相手に股を開いて金を貰っているだけはあって、顔は悪くない。
くるっとした丸い目や、小さな鼻と口は確かに可愛らしいが、何よりそれぞれのパーツの位置がいい。それにどのパーツも主張しすぎず、かといって控えめ過ぎず、顔全体のバランスがいい。特段美人、というわけではないが、やはり可愛らしいことにかわりはない。
あの夜から真島の意識は橘によって占領されていたが、それがなぜなのかは真島自身も答えを出せていないのだ。
なぜ橘はこんなにも真島の性的な部分を興奮させるのか。偶然、ほんの偶然だったはず。あの夜、あの場面に出会わなければ、橘のことなど気にも留めなかったはずなのに、出くわしてしまった事実はどうあがいても真島が抹消できるものではない。
駅で口止めされてから二日、という時間が流れた。しかし真島の意識は橘の存在に拘泥したままだった。橘が体を売っていることには事情があると本人が言っていたが、その事情はいったいどのようなのか。これに関しては考えたところで模範解答が出ることはないだろう、真島はそう考え、諦めることにした。
そしてもう一度橘を見つめた。半袖のシャツから伸びる腕は白く、細く、微かだが色香を感じさせた。あの綺麗な腕を指でなぞってみたい、という願望が湧き上がった。指から柔らかさや体温がじんわりと伝わってくるのだろうか。想像すると、ほんの少しだけ体温が高くなった。
すべての授業とホームルームが終了すると、教室の中に密集していた生徒たちは少なくなった。人が少なくなっていく教室を眺めているだけというものは寂しさもあったが、今はそんなところに感情を浪費し、ぼんやりしている暇はなかった。既に教室を出た橘を追うのだ。小走りで昇降口に向かうと、ちょうど橘が靴箱からローファーを取り出していた。
「よぉ、橘」
声が聞こえなかったのか、真島などには目もくれず、橘は家路につこうとした。
「無視すんなって」
そう声をかけると橘は「私、嫌がっています」と張り付けた顔をこちらに向けた。
「何、急いでるんだけど」
「特に用事はないけど、一緒に帰ろうと思って」
「なんで私があんたと一緒に帰らなきゃいけないの、意味が分からないし、必要性を感じない。じゃあね」
「そんなこと言われても、駅までは同じ方向だからな。」
そして真島は、一メートルほど間隔をあけて橘の後ろを歩いた。まだ明るい空の色を瞳に移しながら、駅までの道のりをゆっくりと歩いた。
「なぁ橘、急いでるって言ってたけど、何か用事でもあんの?」
「バイトよ、学校終わってから直接行くの」
「バイト、ねぇ。それって夜遅くまでおっさんと一緒にいることと関係ある?」
橘は立ち止まったが、振り返らなかった。真島を見ようとはしなかった。
「だから、私が何してようとあんたには関係ないでしょ。授業中、じろじろ見てるのも気持ち悪いし。あんた何がしたいのよ」
真島は驚いた。授業中橘を眺めていることに気付かれていたなんて、顔から火が出そうだ。
「気付いてたんだ」
「あんなに凝視されたら誰だって気付く」
橘は再び歩き出したので、つられて真島も足を進める。気温は高い、湿度も高い。そういえば昨日の晩は雨が降っていた。季節は春から夏へと移り変わっている。太陽も、風も、田植えが済んだ水田の匂いも、すべて夏を感じさせた。流れ続ける時間や季節と共に橘の記憶も流してしまえたら、とさえと真島は思った。
なぜ真島は橘のことなど放っておかないのだろうか。無関心でいることは簡単で、自分に羊水のような生ぬるく快適な人間関係を提供してくれる。わざわざ他人に心を明け渡す必要はないし、真島も他人の心が欲しいと思ったことはなかった。
そう、放っておけばいいのだ。しかしそれができなかったのは、前を歩く橘はどこか悲しそうにも見えたからなのかもしれない。他人の感情に寄り添う、そんな経験のない真島が橘にしてやれることなどあるはずもないが、それでも真島の前を歩く彼女の後ろについて、追いつかないように歩幅を合わせていた。
仮面のような無表情も、突き放すようなものの言いかたも、自分自身を守るための鎧にしか見えないから、不器用でいじらしくて、もっと暴いてみたいと真島は思った。橘は、この小さい背中にどれほどの重荷を背負っているのだろうか。それはきっと橘本人しかわからない。それを譲り受けたいわけでもない無責任な真島は、その好奇心と無粋な詮索心を抑えることが困難であった。無粋、そうだろう。それでも真島は、橘のことを知りたかった。
駅に着くと、二人して無言で隣に並んだ。沈黙こそ今の二人にぴったりだと思ったからこそ、真島はなにも声に出さなかった。もうじき夏だ。まだ夏至を迎えていないこの季節は、徐々に日が長くなり、一日が大きくなったように錯覚する。もう四時を回ろうとしているが、まだ青い空は陰ることなく、真島の頭上に存在していた。
隣を見れば、自分より小柄で、色白な身体。細い脚。真島はその足を眺めながら、この綺麗な脚で踏まれたらどんな気分だろうと妄想した。
―履きなれていないピンヒールでもいいが、通学用のローファーもいいな。橘にはどんな靴が一番似合うのだろうか。肌の色が白いから濃い色の靴がいい、そうだ、それがいい。
いくら真島が脳内で劣情を燻らせようと、現実世界では二人の間に会話はなかった。この沈黙は続くと思っていたが、それを破ったのは意外にも橘の方だった。
「あんたって、デリカシー無いのね」
「あんた呼ばわりするとは辛辣だな」
「そう呼ばれるだけのことはしてるし、デリカシーがないのだって本当のことでしょ。このデリカシー無し男。ずかずか他人の領域に土足で上がり込んで、付きまとって、迷惑だって思わないの?」
「それは、悪いとは思ってるけど」
「じゃあ聞くけど、私に付きまとう理由は何?」
橘の表情に初めて色が宿った。今、橘は困っている。怒っているようにも受け取れるが、これは動揺していると本能的に察知した。
「口止めにヤらせろって、脅そうと思ってたんじゃないの?」
顔の表面では怒っているけれど、どこか泣き出しそうにも見えた。ぴんと張った糸のように脆くて、少しの衝撃で切れてしまいそうだ。怒りと悲しみは紙一重だと、真島はどこかで聞いたことがあるような気がした。今の橘はまさにそれだった。
「そんなこと思ってないって言えば嘘になるかもしれない。でも、それだけじゃない」
「ふぅん。デリカシー無し男のくせに、案外正直じゃない」
「正直に生きることがモットーなんだ」
「悪くないんじゃない、正直に生きるのって難しいことよ」
その言葉の後に何かを続けようしたように見えたが、会話はそこで途切れてしまった。会話が終わると、電車がやってきたことを告げる音が空気を震わせた。車体が走り去り、生まれた風が髪をなでる。心地よい風ではないが、乱れる髪を押さえつける橘に、目を奪われたことは心にしまっておこうと、真島は思った。電車に乗り込むと冷房が効いていて体の表面を湿らせていた汗がひっこんでしまった。
「夏だから日が長いな、まだ空が青い」
電車の窓辺に青空を仰ぐ。六月、初夏と呼ばれる季節だけあって、もう春の色はすっかり消えていた。
「私、夏は嫌い。熱いし」
呟いた声を聞き逃さなかった。小さな呟きだった、しかしそれは叫びにも聞こえた。消え入りそうな弱々しい声だったが、心の奥底に隠してあったものが漏れ出したのではないかと推測させる声だった。
「確かに暑いよな。俺も暑いのは苦手だし、馬鹿な頭がさらに馬鹿になるから好きじゃないけど、嫌いって言うのはもったいないと思うぞ」
「もったいなくてもいいわ、嫌いなものを好きになんてなれっこないもの」
「嫌な思い出でいっぱいの季節なら、楽しい思い出で塗りかえればいいんじゃないのか?」
「そんなこと、簡単にできるわけないでしょ」
そう言った橘の瞳は、太陽の光を反射しているせいか、少し濡れたように光っていた。その瞳を、真島は心底綺麗だ、と思った。
蝉の鳴く声は近く、たった七日間しか存在しない生を疾走する様子を感じさせた。真夏の太陽に焼かれた肌は小麦に染まり、少年は健全な夏休みを謳歌する子供らしくなっていることだろう。少年は虫取り網を片手に小さな雑木林を探索している。
さて、どこにクワガタやらカブトムシがいるのか、昨日の夕暮れに仕掛けたエサはどうなっているのか、少年は高揚感を隠し切れずに、蚊にかまれることも恐れずに、雑木林を歩き回った。
都会の子供はこういった遊びをしないだろうが、少年の住む田舎町には小さいながらも林や竹藪などが存在しているので、自然の中で遊ぶ子供は珍しくない。走るたびに、がしゃ、がしゃ、と音を立てる虫かごの中には、捕獲したカナブンが一匹だけ入っていて、ぶぅんぶぅんと震える羽の音が聞こえている。
乾いた夏の空気は熱い。肺の中がじんわりと焼けていくような感覚はこの季節でしか感じることのできないものだが、少年の主観としてはあまり気持ちのいいものではない。しかし、子供にとっての夏は楽しいものだ。夏休みを謳歌する子供たちにとって暑さや不快感などは、全くと言っていいほど存在しないのだ。
雑木林から出てアスファルトの上を歩いていると、なにやら小さなものが落ちていることに気付いた。遠くから見るそれは生き物なのか、ゴミなのか区別がつかなかった。少年の心の中は、近づいてその何だか分からないものが一体何なのかを確認するべきか否か、という二つの選択で埋まっていた。否定の選択を振り払い、落ちているそれに小走りで近づく。
ピクリとも動かないそれは、一羽の雀だった。小さな翼には血が滲んでいる。死んでいるのかと思ったが、そっと触れると指先から温度が伝わってきた。その微かな体温が、小さな雀がまだ生きていることを証明していた。
―助けなきゃ
とっさにそう感じた。強いものは弱いものには優しくしなければいけない。学校でも、家でもそう教わってきた。少年自身もその考えを疑ったことはなかった。そしてこの状況においての強者は少年であり、弱者はこの雀である。少年はまだ幼く、傷ついた雀を助けることに何の疑問も抱かなかった。助けることが正義であると信じて疑わなかった。
虫かごの中にすでに入っていた健康なカナブンを外に放り出し、傷ついた雀を虫かごの中に入れた。
―少しの間だけ我慢してね
虫かごを揺らさないように、中に存在する虚弱な生き物を慈しむように、ゆっくりと歩く。少年は、ちょっとした非日常に触れたことにより興奮していた。自分がこの哀れな雀を助けるのだと考えると、まるでヒーローにでもなったかのような、そんな感情に包まれていた。
家にたどり着くと小さ目な段ボールの中に古くなったタオルを敷き詰めた簡易的なベッドを作り、その中に雀を寝かせた。
傷口も消毒しなければいけない。このちっぽけな命の灯を消さないために、やるべきことは沢山ある。救急箱から包帯と消毒液なんかの、とにかく治療に必要だと思ったものを片っ端から取り出して、雀に治療を施そうとした。
ガーゼに消毒液を染みこませて、傷口を撫でる。その後はどのような薬を塗ればよいか分からなかったので、包帯を巻くだけにしておいた。タオルの上で横たわる雀は小さく胸を上下させていた。少年は、ただ、雀に元気になってほしかった。できるだけ早く健康を取り戻して、ぴぃ、と泣いて見せる姿を望んでいた。
その夜少年は、元気になった雀が窓辺から飛び立っていくという夢を見た。少年はこれが正夢になることを望んだ。いや、そうなる未来しか脳内に存在していなかった、という表現の方が正しいかもしれない。目覚めると真っ先に雀が眠っているベッドを確認した。しかし、雀は冷たくなっていた。
最近、夢見が悪いと真島はため息をこぼした。立て続けに何日も、同じ夢を見るのだ。あれは真島の過去の中でも大きく印象づいている出来事だ。だからこそこのように夢に見るのだろうか、だとしても、やはり気分は悪い。真島はもう一度おおきく、わざとらしくため息をついた。
橘はふと登校しなくなる、彼女の座席だけ何日もぽっかりと空白になるのだ。今までならば気にもとめないような、些細なことだろうが、それも真島がどうにも気落ちする原因の一つなのだろう。橘が登校しなくなるのは、数日だったり、一日のみだったり、規則的ではないが、進級できなくなるまで休む、ということはしていない。
橘が再び教室に現れたのは、今回においては一日だけで、真島はまた授業なんて放り投げて、彼女を目で追う毎日が始まった。気付かれてしまっているなら、もう隠れる必要もないだろうと、真島は無遠慮に橘を凝視した。その結果、クラスメイトの、主に女子から奇怪な目で見られていたが、それさえも真島にとってどうでもよいことに成り下がっていた。
橘の髪の黒さ、瞳も同じように黒い。日本人と言えど、ここまで黒い髪に瞳、というのも珍しい。事実、真島の地毛は限りなく黒に近いダークブラウンだ。そんな細やかな部分に気が付いてしまうのは異常ではなかろうか。それでも真島は彼女に釘付けで、その横顔を見つめていると胸の中がどうにも騒がしくてかなわなかった。
真島は、繰り返す毎日が不満だったわけではない。退屈に感じることがあったとて、平凡な自分を受け入れて、感情が揺れ動かないほうが楽だと知っているからだ。しかし最近の真島はどうだ。今までの人生を否定するかのように、橘に翻弄されている。
―自分らしくないな、自分がどんな人間かなんて知らないけど
昼食の時間になっても、真島はぼんやりしたままだった。いつものように真島のクラスに訪れた中村は、席の主がどこかへ行ってしまい、ぽかり、と空いた椅子に座って、菓子パンの袋を大胆に破った。その菓子パンはどうやらイチゴの香料が使用された甘ったるいもので、食事に甘いものは言語道断、な真島はやはり中村を理解できずにいた。
「なぁ、真島」
「なんだよ」
「お前、ちゃんと寝てるか?」
甘いパンを咀嚼しながら、中村は眉を寄せて真島に詰め寄った。いきなり他人に距離を詰められた真島は、反射的にのけぞって中村を避けようと試みた。真島は中村に対して不快感を抱いたわけではないが、それでも他者から突然に距離を詰められるのは気分が悪いのだ。
「どういうことだよ」
「目の下、鏡でちゃんと見て来いよ」
「なんでもいいじゃないか、俺の家での過ごし方なんて」
話を逸らそうとする真島の意図を察したのか、中村は物理的にも真島から離れた。中村のこういった、他人に過干渉しないところを、真島は気に入っていた。だからこそ、腐れ縁だからという理由抜きにして、いまだに昼食をともにしているのだ。
「腐れ縁として心配してやってるんだよ。そんなひでぇ態度なら、購買のパンばっかで寂しい俺は、お前の弁当からおかずを奪ってやる」
「やろうとしてることがみみっちいな」
「高校生なんてそんなもんさ」
ふん、と鼻を鳴らして、中村はもう一度パンを齧った。
高校生なんて、という考えには真島も同意だった。所詮、真島たちはティーンエイジャー(笑)なんて、洒落た言葉で包んだってたかが高校生だ。大層なことができるわけない。そう達観してしまっている。
また一日が終わって、真島はすでにスニーカーへ履き替えて、いつも通り駅へ向かう道へと踏み出した。昇降口のドアを出て校門まで急がずに、いたって普通と呼べるペースで歩いていると、足的同じように歩く橘の姿がそこにあった。彼女も帰宅部であるため、真島と下校時間が被るのは必然とも言えるだろう。
「よっ、いま帰りか?」
「うわ、でた。あんた暇なんだね」
極力、軽い調子で声をかけたつもりの真島は、橘がごみくずを見るような目で見られるだなんて思わなかったため、頭の中での処理が追い付かずフリーズした。しかもまるであの黒光りする昆虫、ゴキブリでも見たかのような反応を示すものだから、真島は笑顔を作っていた口角が引きつった。その様子はどうみたって間抜けだ。
「私は暇じゃないし、付きまとわれるのも迷惑。てかうざい」
「付きまとってねーよ、クラスメイトに声かけるのって普通だろ」
「あんたが他の女子にも同じことしてるならね、でも違うじゃない。なんで私に付きまとうの」
なぜ、橘に付きまとうのか。そもそも、付きまとっている自覚さえない真島は、その問いの答えを出すどころか、もっと根源にあるはずの感情や動機なんかが、どうしてもわからずにいた。
強いて言うならば、欲望だろう。もっと橘と話したい、瞳を見つめてみたい、声を聞きたい。そう言った欲が真島を突き動かしているのだが、肝心の真島はそのぐちゃぐちゃで、どうしようもなく汚い、排泄物のような感情を認知することを避けている。
「だからなんで私に付きまとうのか聞いてんだけど」
「わからない」
理解しようとしないものは、わからない。だからこそ真島は、橘にこのような返答をせざるを得なかった。
「はぁ? こっちがわけわかんない」
橘の発言はこの場において間違いなく正論であろう。意味不明な戯言を垂れ流しているのは真島だ。しかし彼はそんな自身の発言を戯言や戯言、といったように考えていない。あくまで、自分自身と向き合い、真島なりの真剣さを見せたつもりなのだ。
「それでも、俺は君のことを目で追うよ、付きまとう」
「なにそれ、ストーカー宣言? きも」
きも。という一言は、真島のナイーブでかつ人並みのプライドを持ち合わせた心に傷をつけるには十分だった。
「きも、はないだろ」
「事実でしょ、少なくとも私にとっては。あぁ、でも、怖、にも近いかな」
「ぼろくそに言うじゃないか」
「今まで近寄りもしなかったクラスメイトがさ、いきなりガン見してきたり、帰ろうとしたら声かけてきたら怖いでしょ」
確かに、と納得しかけた真島は、自身がまさか恐怖の対象になっているとは、今の今まで思いもしなかった。馴染みのない人間が唐突に距離を詰めてきたら、真島とてなにか裏があるのでは、と勘繰ることだろう。
「ねぇ、真島君」
「なんだ?」
「あんたがきもいとか、怖いとか、それについての印象が変わるわけじゃないんだけどさ」
「相変わらずひどい言いぐさだな」
真島の言葉など聞こえていないような態度で、橘は言葉と途切れさせることはなかった。
「それでも私のこと、言いふらさないでいてくれたのはありがとう」
感謝を述べた橘の表情は、彼女が俯きがちにそう言ったものだから、ニュアンスまで真島が読み取ることはできなかったが、橘の頬が微かに赤くなっていた。
ありがとう、たった一言だった。その言葉が真島の鼓膜に届いた瞬間、彼のなかに存在する全身の細胞は震えて、嵐に巻き込まれた。そんな、橘の一言で真島のすべてが塗り替えられていくような、祝福が身体を駆け巡った。
橘は呆然とする真島を放置して、帰路についた。その様子をぼんやりと、恍惚と眺めていた真島は、まだ日の落ち切らない夏の空と、木々の匂いと、橘の髪と肌のコントラストを目に焼き付けていた。
橘からのありがとう、と何日も反芻して、また自慰にいそしんで、日常を過ごしていた真島であるが、それだけ橘へ執着しておきながら、肝心なことを見落としているのだ。灯台下暗し、真島は、彼自身の感情を理解しようとさえしないで、その思考回路さえ放棄して、ごみ箱にでも投げ捨ててしまっている。まるで幼児退行のように、本能と感情に振り回される真島はさぞ哀れだろうが、本人としてはこの上なく幸せだ。
そんな真島は、本人としては日常をそつなくこなしているようで、実際のところはぼろが出ていることに気づいていないのは本人のみ、というまさに間抜けで、格好の悪い様子をまき散らしていた。
「やっぱりさ、最近の真島って変わったよな」
昼休みにしか顔を合わすことのない中村でさえ、真島の変化に気が付くほどには、真島はもう正常ではなかった。これが真島の本性で、今までが仮面をつけた彼の状態であった可能性も否定できないが、それでも周囲は真島が突如変化した、という目で見るだろう。
少なくとも、今まで飄々と、そつなく生きていた真島にしては、感情の吐露が激しく、ぼんやりしていることも多く、不審な点だらけだ。
「なにがさ、俺のなにが変わったんだ?」
「なんだろう、僕も四六時中お前のことを見てるわけじゃないからわかんないけど。前よりも表情が子供っぽくなった」
「それってバカにしてるだろ」
「いや、そういうことじゃなくてさ。中学んときからお前ってどっか冷めてたじゃん。それが今はなんか、子どもらしいんだよな。」冷めてるよりかはいいとは思うけど」
「ほんとにいいのか、それ」
「さぁ? あくまで僕の主観でしかないからね」
相変わらず甘いパンを昼食に選ぶ中村は、変わらない。おそらく中村は、中村であり続ける。真島にはその強さはないからこそ、彼を友と呼び、また中村は意外にも変化していく真島を面白がって傍にいるのだ。
「今日もデラックスイチゴデニッシュは美味い」
「いつもそれ食ってるよな」
「なんかねぇ、新しいものに手を出すのもしんどいじゃん。新商品のパンを食べて、あぁ、ハズした! って思うのもさ、逆にこれはうますぎる!ってのも。気持ちが揺れるのは嫌なんだ」
「感情の揺れ、か」
「そうそう。真島はさ、なんか知らないけど、このところずーっとぐらぐらしてる。それってしんどくない?」
「さぁ、わかんね」
「僕はそれが不思議でたまらないよ、でも見てるぶんには死ぬほど面白い」
中村の正直で、それでいてややデリカシーというものを置きざったものの言いかたは、彼自身が感情のぐらつきを指摘した真島にも適応されている。こんな性格なので、中村も二年の夏休み近くなっても真島の元へ昼食を共にするべく、わざわざクラスを移動するはめになるのだ。
「なにがあったか詮索する気はないけど、あんまり変なことはするなよ」
「なにそれ、警告?」
「お前って視野が狭いから、何しでかすかわかんない。幼馴染の助言とでも思っとけ」
「はいはい、ありがと」
形式だけの礼を言った後、ろくに中島の言葉を聞かずに、真島は再び弁当に入っているパプリカのピクルスに箸をつけた。
昼食を終えると、やはり時間が過ぎるのは早い。今日もまた、いつもの放課後を迎えた。しかし今日の真島は、橘を探すこともせずに、足早と駅へ向かった。まだ午後四時にも満たない時刻で、これではまだ早い、と真島は判断した。少なくとも、午後七時を回らないと、いけない、でなければ橘はあの場所に現れないと真島は知っていた。
―早く夜になればいいのに
いつになく真島は、夜を待ち望んでいた。はやくこの青空が菫色を通り越して、星が輝かないかと、うずうずするさまを自身で抑えきれないでいた。
やってきた電車に乗り込んで、繁華街の最寄り駅で降りた真島は、初めて橘を尾行した際に利用したカフェで再び彼女を待つことにした。やはりブラックコーヒーの美味さはわからない子供の真島ではあるが、今はその苦みさえも心地よかった。苦みとは刺激である。そのままの意味で、真島は刺激と、安楽、どちらかといえば刺激を欲しているからこそ、ブラックコーヒーに何も入れることなく、勢いを付けてストローを吸い上げた。
真島は高揚している。はやく、夜になれと、まるで夜にしか生きることができない怪物かのように、空の色が移り変わることを心待ちにしている。
午後八時、真島はカフェを後にして、あの日橘を見つけたホテル街へと足を向けた。今日、彼女がこの場に現れるかなんて、真島にわかるはずもない。賭けである。真島の妄想と、ちょっとしったギャンブル精神と、まだ舌に残るコーヒーの苦みが、彼を有頂天に連れて行っている。
「べんきょう部屋」の入口が見える、他のホテルの影に隠れて、真島は自らの心臓の跳ねを感じながら、ヒロインの登場を待ち望んでいた。橘は、真島にとって、ヒロインだ。
そして真島本人は、彼自身の頭の中ではヒーロー、ということになっている。馬鹿げたこの少年は、それが現実であると疑うことさえせずに、その妄想をあるがままに受け入れている。
運がいいのか、悪いのか、橘はこの場に足を踏み入れてしまった。それも、前とは違う「おっさん」を引き連れて。真島は唇を嚙みながらその様子を見つめながら、彼女の同行をうかがっていた。鼻と口は繋がっている。血液が染みた真島の口内から、鼻腔に賭けて鉄の匂いがあがり、それによいそうになりながらも、彼は待ち望んだヒロインから目を離すことはなかった。
「最近会ってくれる頻度少なくない?」
「テストだったのよ、学生だから、いろいろあるの」
橘が男を誑かすときの表情は、どこか子どもっぽさを残しながらも、無理した背伸びを見せつけるような、まさに計算しつくされた、そんな顔だ。
―大丈夫、橘がどんなあばずれでも、俺は君を見捨てたりなんかしないさ
「いいねぇ、高校生。やっぱり若いと肌が違うし、あそこの締りも、ね」
橘の頬に指を添わせた大垣は、やはり期待した男の欲をむき出しに、隠しもせず瞳に色欲を彩らせていた。そんな大垣の指をゆっくりと自身から引きはがした橘の表情は、それでも笑顔だった。
「ちょっと、大垣さん。まだホテルの前よ」
「ここからが前戯、っていうじゃない」
「なにそれ、誰かの入れ知恵?」
「ただの親父のエロ心だよ」
大垣は橘の右手を取って、そのままホテルの中へ入ろうとしている。今しかない、と真島は死角になっていた場所から飛び出して、橘の左手首を思い切り掴んだ。
「なにしてんだよ、早くこっちこい!」
「ちょっと、え、真島君!?」
混乱し、状況が把握できていない橘を置き去りにしながら、真島はホテル街を一刻でも早く抜け出そうと走った。その後ろでは、あまり体力がないであろう橘が呼吸を荒く、必死で真島のペースで走らされている。
「ねぇ、ちょっと、痛いって」
真島は少年時代を思い出していた。あの日、真島が発見した雀のことだ。真島の施した拙い治療もむなしく、死んでしまった小さな命。あの朝、真島は絶望したのだ。まだ短い人生の中で、どうにもならないもの、手を尽くしても手に入らないものがあると、理解するには充分すぎる思い出だ。
そしてあの朝、真島は雀の死骸を自らの手でぐしゃり、と潰した。なんども、なんども、真島の納得がいくまで、潰し続けた。死んでしまったのなら、ここに肉体が存在するのもかわいそうだと、真島は自らの手で慈しんだはずの雀の体を破壊することを選んだ。それが純粋な愛情であり、正義だと疑わずに。
真島の正義だ、愛情だ、それを誰が咎められるだろうか。真島は、悪いことをした、というようにこの記憶を扱っていない。そんな少年が思春期を迎えた。そして、その未成熟な心のまま、橘みのりという少女に出会ったのだ。
「邪魔しないでよ、ちょっと、聞いてんの?」
「そんなこと、してないだろ」
落ち着かない呼吸を必死で落ち着けようと、橘は吸って、吐いて、という単純な生命維持を繰り返していた。それでも真島が無理をさせたせいか、橘はいまだ苦しそうな表情から抜け出せないでいる。
真島は振り返ることなく、橘の呼吸するその音を、ただ聞いていた。橘とセックスをしたら、こんな息遣いなのだろうか、という不埒な考えを頭の隅っこに置き続けながら、前という名の進行方向だけを見続けていた。
ホテルが放つネオンから、カフェやら、ファストフード店から漏れる光で溢れる大通りまで戻ってきた。
ようやく立ち止まった二人は、街の雑踏に紛れながら、それでも確かに、二人でそこに存在していた。
他人から見れば、夜に出歩く高校生二人組でしかない。それでも、真島と橘には彼らしか知らないドラマがあり、その脚本の上で踊っている。人生の脚本なんて存在してはいないだろうが、真島はこの状況をまるでスクリーンの上の出来事のように捉えていた。
主人公。真島はこの瞬間、哀れなヒロインを救ったヒーローだった。それが現実世界に結びついているか、その答えはおそらく大多数の人間がバツ印のついた札を上げるような、そんな滑稽な思い込みだ。
「私、何度も言ったでしょ、邪魔しないでって。私には、私の事情があるって」
「わかってるさ、そう、お前のことなんて放っておけばいいんだ」
「分かってるならなんでそうしてくれないの、ごめん、わけわかんない」
橘は、真島のことが理解できなかった。今まで彼女が真島のことを理解した、そもそも理解しようとしたことなどなかったのかもしれないが、この瞬間においてはさらに彼がまさにこの世のものではないような、そんな不気味さを感じ取っていた。
そしてそれは、怯えへと繋がった。橘は、真島が恐ろしく、知らないうちに手が小刻みに震えていた。その微かな震えを真島が気付かないはずもなく、その状況自体は認識していたが、彼女の心までは覗こうとはしないまま、真島の都合がよい解釈を真実だと位置付けたのだ。
―橘も、興奮している
あくまで真島は普通の高校生だ。橘もまた、普通の高校生だ。どこから彼らの歯車が狂ったのか、誰にもわからないだろう。当事者にも、橘を食い物にしていた大人も、今日橘を抱くはずだった大垣も。
「なぁ、橘。こんなことやめろよ」
「私は何回同じこと言えばいいの」
「俺は、常識とか、そういうくだらないことのために言ってるんじゃないんだ」
「じゃぁ、どうして」
「なんでだろうな、俺にもわからない。でもお前にこんなことはやめてほしいんだ」
「それはできない、そもそも、あんたに言われて辞める義理も理由もないし」
その言葉は、真島を激昂させた。橘の人生に、真島の存在は不要だと言ったのだ。それはあまりに残酷で、自己中心的な言葉だ、と真島は怒りに身を任せた。
会話は打ち切られ、騒々しい街とは対照的に、二人は沈黙に包まれた。そして、頑なに振り替えろうとしなかった真島が、橘に向き合った。
「ねぇ、聞いてる?」
白くて、きめの細かい肌。体躯も小柄で、骨の一つ一つが細いのだろう、華奢で、壊れてしまいそう。声も、身体も、髪も、橘が橘として存在するだけで、真島は歓喜し、ただその心地よい感情に身を任せることができたのだ。
真島は、彼女が欲しかったのだ。自分の手中に収めて、自分だけのものにしてしまいたかった。ものでも、物でもどっちでもいい、彼女が真島の「もの」になるのならば。
しかし、橘はそれを拒否した。いや、真島そのものを拒否したのだ。
―簡単に壊れるんだろうな、むしろ壊れてくれたらいいのに
理性が途切れるなんて、簡単なことだ。誰しも仮面を被ってこの世の中を生きている。真島も例外ではなく、そうやって生きていた。その仮面の下にどのような人格や感情が眠っているかだなんて、他人は愚か、自分自身でさえ理解していない。
真島の仮面の底から覗いたのは、エゴであり、欲であり、あと一つは、たった一文字で表現することができてしまう感情だった。
「ちょっと、なんか変だって、ま、ましまく」
怒りのままに、真島はその拳で橘の左頬を思い切り殴った。力加減なんて、生ぬるいことを抜きにして、力のままに。
驚きのまま、赤くなった左頬を抑えながら真島に対峙する橘は、平生より丸い目をさらに丸くして真島を見つめていた。その瞳に映るのは、彼女自身の感情か、目の前の怪物か。それは混乱に負けそうになっている橘に理解できることではないのかもしれない。
―もとの肌が白いから、赤くなって綺麗だな
「正気? ちょっとあんた、やばいんじゃないの」
橘の言い分はもっともだろう、しかし、その言葉はもう真島には届いていなかった。その証拠に、真島は、橘の問いを無視して自身が言いたいことを言葉にするために口を開いた。
「橘、俺さ」
単純で明快、そんな事実から真島は目を逸らし続けていた。
真島はその瞬間確信した、自身の中に渦巻き続けた感情を。ずっと彼自身のなかに存在し、その感情に突き動かされていた。ただ、真島は、その感情を抱いたことがなかったが故に、手遅れになる前に気が付くことができなかったのだ。真島の口角は微かに上がっていた。笑顔、と呼ぶには醜悪な顔だ。そんな顔を真正面から見てしまった橘は何を思うのか。
しかし真島はそんな橘の感情さえ無視してしまえるほどの、強烈で苛烈な感情に支配されていた。そして、真島は理解した。
―この感情が、世間ではこう呼ばれるんだろう?
そう、これはまごうことなき恋であると。
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