ポップアップラブ

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 会社近くのカフェで買ったホットコーヒーを飲みながら自社サービスに関する昨日までの数値を眺める。Webメディアの会社に勤める斉藤の毎朝のルーティンだ。  そして企画職の斉藤よりも1時間遅くに出社してくる渡邉の「おはようございまーす」という少し気だるげな挨拶に「おはよう」と返すことも斉藤の朝のルーティンの一つだった。  斉藤が務める会社は、従業員300人程度の規模でありながら毎日のようにたくさんのサービスが生まれては消えていくこの業界でユーザーからの安定した支持を得ている老舗のIT企業だ。大学を学部で卒業した斉藤はこの会社に新卒入社をして今年で6年目になる。  銀座に構えたオフィスは今流行りのフリーアドレスを採用しているが大半の社員は決まった席を利用している。チームや職種で固まったり、一人離れて座る人がいたりと様々な人がいるなかで、斉藤は同じチームの人達とフロアの入り口付近に席を確保していた。  少しずつ人が増えていくオフィスで、斉藤はこっそりと渡邉を盗み見る。  渡邉は斉藤の2年あとに入社した院卒のエンジニアだ。ツイストパーマをあてた黒髪短髪にシンプルでゆったりとしたシルエットの服をいつもセンスよく着こなしている。おまけに高身長イケメンときて、入社当時は多くの女性社員を騒つかせていた。友人に「いいとこの子」っぽいと揶揄される斉藤とは、見た目は完全に真逆のタイプだった。  渡邉は斉藤達とは対照的にエンジニア達がフロアの奥に陣取っているスペースをいつも利用している。斉藤の視線の先には同僚に挨拶をしながら椅子を引く渡邉の姿があった。 (昨日と同じ服だったな……)  斉藤は渡邉の姿を眺めながら心の中でため息をついた。昨日の服装まで覚えているなんて我ながら気持ち悪いと自虐しながら昨日の渡邉を思い返す。たしか渡邉は同じエンジニアの女性社員、小松と飲みに行った筈だ。  昨日から着替えていないとなるとオールでもしたのだろうか。もしくはどこかで泊まったのか。一人で?それとも小松も一緒に?  渡邉と小松は新卒の同期入社で、普段からよく飲みにいくらしく、その仲の良さから他の社員達からは付き合っていると噂されている。可愛らしく快活な性格の小松と多くの女性の視線を集める渡邉は誰から見てもお似合いの二人だった。  二人のことを考えていた斉藤はチクリと痛む胸に思わず眉を顰めた。落ち込み始める気持ちを切り替えるためにコーヒーに口をつけると、口の中に広がる苦みがモヤモヤした気持ちを少しスッキリさせてくれた。  斉藤はずっと渡邉に片思いをしていた。  初めて同じプロジェクトの担当になって優秀な仕事ぶりを目の当たりにした時か。  黙っていると迫力のある見た目とは裏腹に笑顔が可愛いことを知った時か。  もしかしたら新入社員の自己紹介の場で初めて見た時から惹かれていたのかもしれない。  気づいた時には姿を見かけるたびに目で追ってしまうようになっていたし、会議や飲み会で一緒になるだけで心が弾んだ。  渡邉よりも早く出社して、入り口近くの席に座るようになったのは、少しでも渡邉と接する機会を増やしたい一心だった。 「お疲れ様です。今大丈夫ですか?」  斉藤が同じ企画職の同僚達との外ランチを終え席に戻ると、ノートパソコンを片手に持った渡邉が尋ねてきた。座る斉藤の顔を覗き込むように首を傾げる姿があざとくて思わずキュンとしてしまう。  斉藤は内心の浮かれようを表に出ないように自制しながら「大丈夫だよ」っとにこやかに答えた。  大半の社員は会社で採用しているチャットアプリを使ってやり取りを済ます中、渡邉は斉藤がオフィスにいる時は直接相談に来ることが多かった。  渡邉曰く「直接聞いた方が早い」と言うことだが、斉藤としても渡邉に会えて嬉しいので異論はない。  渡邉は斉藤の返事を聞くと近くの椅子を持ってきて隣に腰を下ろした。 「来週のリリースの件について少し相談なんですけど……」 「了解、何か見ながらのほうがいい?」 「スケジュールって今見れますか?」  斉藤は自分のパソコンの画面に案件のスケジュールを映し、渡邉が見やすいように画面の角度を調整する。それに渡邉は「ありがとうございます」と礼を言ってから相談の内容を話し始めた。 「他にまだ何か不明点あるかな?」 「いえ、聞きたいことは聞けました。ありがとうございます」  渡邉の話は相談というよりも確認に近く、特に難しい内容でもなかったので十分も経たずに終わってしまった。  斉藤は名残惜しさを感じたが、いつも忙しそうにしている渡邉を引き留めることもできず「また何かあったら気軽に聞いてね」と意識して笑顔を向けた。  渡邉はそんな斉藤の顔をジッと見たあと不意に目を逸らし、フロアに視線を彷徨わせながら「あー、じゃあ」と呟いた。 「斉藤さんってワイン好きですよね?」 「えっ?うん、好きだよ?」 「会社近くで結構良さげな店見つけて……」  渡邉は「ちょっと待ってください」と言いながら斉藤からは画面が見えないように自分のパソコンを開き、暫くしたあと斉藤にも画面が見えるように机の上に置いた。 「ここなんですけど」 「わぁ……いい感じのお店だね」 「割とリーズナブルで飯もうまいらしくて」 「そうなんだ、僕も行ってみたいな」 「それで……良かったら今度飲み行きません?」 「えっ、いいの?」  渡邉からのまさかの誘いに斉藤は思わず前のめりになりながら尋ねる。 「斉藤さんが良ければ」 「行きたい!」  渡邉と呑みに行けることになり、思わず笑みが溢れる。そんな斉藤の様子を見て渡邉も「良かった」と少し照れくさそうに笑った。 「すこしパソコン触ってもいい?」 「どうぞどうぞ。いつがいいですか?俺、予約しておきます」  斉藤がお店のホームページを見ながら頭の中で直近の予定を確認していると、横から「渡邉、今一瞬だけいいか?」と渡邉の上司が申し訳なさそうに声をかけてきた。 「すみません、すぐ戻ります」  渡邉は斉藤に軽く頭を下げると小走りで上司を追いかけた。少し離れたところに移動する二人を見送ってから、斉藤は再びパソコンに目を向ける。  同僚と仕事終わりに呑みに行くことは珍しいことではないが、渡邉が自分が好きそうなお店を見つけて誘ってくれたことが嬉しい。  今週は仕事も落ち着いているし夜の予定も特になかったはず。今夜でも大丈夫だ。むしろ渡邉の都合が良ければ今夜、行きたい……。  逸る気持ちを抑えながら画面に映るお店のホームページを眺めていると、ポンッと画面の右上にポップアップが表示された。  これは渡邉のパソコンで、表示されたポップアップはチャットアプリからの通知で、個人的な内容の可能性もあるから安易に観てはいけない、と頭が理解する前にいつもの癖でポップアップに視線を向けてしまう。そしてその内容を見てしまった斉藤はその場で固まってしまった。 『お疲れ!家に充電器忘れてった?』  チャットアプリからの通知には小松の名前と、昨日渡邉が小松の家に泊まったことを想像させる文章が表示されていた。  先程までの浮かれた気持ちを突き落とすような内容に斉藤の思考が停止していると、続けてもう一件のポップアップがポンッと表示される。 『急ぎ必要だったら持ってくけど』  けど……けど、なんだろう……とぼんやり『けど』の後に続く内容を想像しようとして斉藤はハッと意識を覚醒させた。  内容を見てしまったことは過失だか、これ以上は故意に見たことに等しくなる。それにどちらにせよプライベートな内容を見られては渡邉もいい気はしないだろう。  斉藤は通知を見ないように意識を画面の右上から逸らす。暫くすればポップアップも消えるはずだ。しかしこんな時に限って画面の右上の表示されたポップアップがなかなか消えてくれない。  実際は三分にも満たない時間だったかもしれないが、斉藤にとっては長い時間に感じられた。  意識しないようにすると余計に意識してしまう。もういっその事、パソコンを閉じてしまおうか……。しかし勝手にパソコンを閉じて何か大事な作業が止まってしまったらどうしよう。  普段ならあまり気にしないようなことが気になってしまうのは、少なくとも斉藤がこの状況に心を乱していることを示していた。  斉藤がソワソワしながら渡邉の帰りを待っていると、ポンッという音と共にまた新たなポップアップが表示された。  その瞬間、斉藤の頭にポップアップの閉じるボタンを押して表示を消すという案が浮かんだ。  初めからそうすればよかった、と思いながら斉藤はパソコンのカーソルを画面右上のポップアップへと動かした。そしてその時、見ないようにしていたポップアップのテキストの中に『斉藤さん』の文字を見つけた。  目に入った瞬間、思わずドキリとした斉藤は、閉じるボタンを押す動作が一瞬遅れてしまった。その僅かの躊躇いの間にまた新たなポップアップが表示されて、斉藤が動かしたカーソルはポップアップの閉じるボタンを外してしまう。 「あっ」  斉藤に抗う隙も与えず、パソコンはチャットアプリを画面の最前面に表示させた。そしてチャットアプリはご丁寧に斉藤が押してしまった通知のメッセージをハイライトさせた。  斉藤はもはや無意識でハイライトされたメッセージを目で追っていた。そして、書かれていた文章を鈍る思考でゆっくりと咀嚼する。  これは……と、斉藤が文章の意味を理解したとき、背後から急に伸びてきた腕が大きな音を立てながらパソコンを乱暴に閉じてしまった。  ハッと斉藤が背後に顔を向けると、そこには焦った表情の渡邉が立っていた。 「今見ました!?何を見ました!??」 「あっ、えと……ごめんね?わざとじゃないんだけど……通知消そうと思って間違えて開いちゃって……」 「内容は見てないですか??」 「いや、ちょっと見ちゃった……」  斉藤の言葉に渡邉の顔はみるみる赤くなっていく。そして赤くなった顔を両手で隠すと声にならない呻き声を上げながらその場にしゃがみ込んでしまった。左手には会社支給のスマートフォンが握られていて、どうやら小松からのメッセージは渡邉も確認済みのようだ。普段の落ち着いた大人な雰囲気からは想像できない意外な反応に、斉藤は思わずふふっと笑ってしまった。 「めっちゃ恥ずい……笑わないでください……」 「ごめんね……ふふ……」  渡邉は徐に長いため息を吐くと、しゃがんだ姿勢のまま斉藤を見上げた。渡邉の瞳が僅かに潤んでいることに気づき、胸がキュンと高鳴る。 「いや、すみません。本当に……。飲み行くのも、なしにして大丈夫なんで……」  心なしかしょんぼりしている渡邉に向き合う形に座り直した斉藤は「その事なんだけど…」と話を切り出した。 「今、仕事も落ち着いてて、今夜も特に予定はないんだ。もし良かったら今日、さっきのお店に行かない?僕も……進展させたい……かな」  ポカンと自分を見上げる渡邉の様子に斉藤は悪戯っぽく「悪い話じゃないと思うけど?」と囁いた。  言葉の意味を理解した渡邉が周りの社員が驚くぐらいの大声で「まじか!」と叫ぶのはもう少し後になる。  まだ状況を飲み込めないず狼狽える渡邉に微笑みながら、斉藤は今夜変わるかも知れない2人の関係に心を弾ませていた。 『小松 綾香 14:35  というか、ほんと斉藤さんのこと大好きだよねw恋バナ聞かされるのはいいけど、いい加減それで終電逃すのはやめてw』 『小松 綾香 14:37  とりあえず昨日教えたイタリアに誘ってみなよ!美味しいご飯とお酒入れたら少しは何か進展するかもよ!私も彼も応援してるからさ(^^)』
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