そんなに急いでどこへ行く

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     今から数十年前「せまい日本そんなに急いでどこへ行く」という標語が流行したという。  いつも早足の私は、当時ならば笑われていたのだろうか。  会社からの帰り道、駅からマンションまでの数分間、今日も私は自分のペースで歩いていた。  既に三人の通行人を追い越しているが、若い女性の背中が見えてきたところで、少し気まずさを感じる。彼女に見覚えがあったからだ。  同じマンションの住人だった。エレベーターで一緒になれば軽く頭を下げるが、言葉を交わしたことはなく、名前も知らなかった。  一応は顔見知りであり、黙って追い越すのは失礼だろう。「こんばんは、お先に」と挨拶するべきか、あるいは、声をかける以上は抜き去るのでなく、並んで歩くべきか。  いやマンション内ならばまだしも、今は外の歩道だ。彼女の方では、私を見ても気づかないかもしれない。その場合、こちらから声をかけたら「誰?」と驚かれるだけだろう。  うだうだ考えるうちに面倒になり、彼女を追い越すのは諦めることにした。  どうせマンションまでは残り少し。そう自分に言い聞かせて、歩調を緩める。  少し戸惑うほど不慣れなペースで、数十メートル進んだ時。  彼女がちらりと後ろを振り向いてから、 「……!」  目を丸くして走り出す。一体どういうつもりなのか、私の方が驚くくらいだった。  しかし、よく考えてみれば……。  彼女の立場から見ると、ぴたりと歩調を合わせた男が、自分のすぐ後ろを追ってくる形だ。私を隣人と認識できなければ、恐怖の対象になるのだろう。 「でも不審者扱いはショックだ」  独り言と共に苦笑いした瞬間、焼けつくような痛みが背中に走る。  慌てて振り返ると、黒衣の男が立っていた。夕闇に溶け込むような格好なのに、手にした刃物は赤い血で汚れて、そこだけ目立っていた。 「邪魔だ、どけ!」  男が私を突き飛ばす。  ああ、彼女は私ではなく、この男を見て怯えていたのか。  理解すると同時に倒れ込み、私は意識を失うのだった。    
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