一駅分歩きましょう

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「ひ、一駅分、歩きませんか?」 「えっ」  俺の提案に、高草木(たかくさぎ)さんは元々大きな目をさらに丸くした。  ここはJR両毛線の車内。  俺は都内にある歴史系の小さな出版社に勤めている。今日は雑誌の遺跡特集の取材だ。入社一年目の俺は、二つ先輩の高草木さんと、岩宿遺跡目指しここ群馬まで電車に揺られてやってきたというわけだ。 「最近めっきり秋らしくなって、今日は気候もいいし。歩いたら爽快な気、しません?」  高草木さんは眉を寄せた。 「あたしは別にいいけど。でも、小島くん、取材前に疲れちゃわない?」 「大丈夫です! 俺最近健康に目覚めたんで」 「健康に目覚めるってなに」  高草木さんはぷっと吹き出した。かわいい。 そう、俺は高草木さんにほのかな、いや、熱い恋心を抱いていた。今日の取材は決まったときからわくわくしていて、昨日はとてもよく眠れた。俺は遠足前には熟睡するタイプだ。  二人きりの時間が少しでも長く続くように、そう願っていた俺に、先程高草木さんは言った。 「次、国定だって。あと五分ちょいで岩宿まで着くみたいだよ」 「予定より早いっすね」  高崎駅での打ち合わせが早めに終わったのだ。今はまだ朝の十一時前。  俺が若干がっかりしながら呟くと、高草木さんは笑った。 「今日は直行直帰だから、早く帰れていいじゃない」 「良くない」  との言葉は飲み込んだ。 「次はー、国定ー、国定ー。お出口左側です」  アナウンスが聞こえる。国定駅の次が目的地岩宿駅だ。  降りる気配のない高草木さんに俺は詰め寄った。 「俺! 最近一キロ太っちゃって! 歩きたい気分なんです!」  高草木さんは気圧されたように体を引いたが「一キロって、女子かよ、ってか、女子でも気にしないわ、そんなん」と笑いながら腰を上げてくれた。 「そ、そろそろですかね……」  俺は隣を歩く高草木さんをちらっと見やった。遺跡を歩き回る予定だったのでヒールは履いていない高草木さんは、涼しい顔でてくてくと歩いている。対する俺は息が多少上がってきていた。  国定駅を出て、もう三十分は経っている。そろそろ着くに違いない。  そう思ったのだが。 「んー。そうだねえ。あと一時間以上はかかるかなあ」  時計を見つつのんびりと答える高草木さんに、俺は目を見開いた。 「俺、一駅分って言いましたよね……?」  何か俺は勘違いをしていたのだろうか。  半歩前を歩く高草木さんは、くるりとこちらを振り返った。 「あー。ごめんね。国定、岩宿間って駅の間隔けっこうあるんだよ。他は一時間前後で着くと思うんだけど」 「それでもいちじかん!」  俺はがくりと膝から力が抜けた。  俺は無知だった。東京生まれの東京育ち。一駅分歩くことがこんな苦行だとは、今の今まで知らなかったのだ。  一般的に都会の人は田舎の人よりよく歩くと言われている。俺も普段なら三十分くらい歩くことはわけはない。  が。「一駅分歩こう」と思って歩き始めたからには、気持ちは一駅分しかもたないのだ。 膝を付く俺の頭の上から、高草木さんの心配そうな声が降ってきた。 「あそこ、コンビニ見えるよ。ちょっと休憩しようか?」  中腰になっている高草木さんの顔を見上げる。顔の後ろから眩しい光が差している。 「お願いします、女神さま」  俺が頭を下げると、高草木さんは頬を染めて楽しそうに吹き出した。  コンビニの隅にあるイートインコーナーでドリンクを飲みながら一息入れる。 「というか。高草木さんこのへんの路線事情詳しいですよね。取材でよく来るんですか」  こんなに次の駅まで遠いと知っていたなら最初に教えて欲しかった、そう恨みがましい思いも少し乗せて尋ねた。 「ああ。あたし、地元群馬だから」 「そうなんすか!?」  俺は驚くと同時に歓喜した。好きな人のことを知れるというのは嬉しいものだ。 「群馬のどこですか? 俺、スキーとかで何度か群馬来たことありますよ。俺の知ってるとこかな。行ってみたい!」 「あ、えっと」  矢継ぎ早な俺の様子に、高草木さんは少し戸惑っているような様子を見せた。  やべ。警戒されたら悲しい。  俺は体を起こした。努めて冷静な声を出す。「あ、言いたくなかったら別に。すんません」 「そういうわけじゃないよ」  高草木さんは慌てたように手を左右に振った。 「実は岩宿遺跡の近くなんだよね。今日取材する人の一人も、うちの両親のコネで」 「あ、そうなんすか!」  たちまち気分が回復して前のめりになると、高草木さんが「近い近い」と両腕でガードした。  またやっちまった!   警戒させない、警戒させない。警戒させない…… 「小島くんって、ちょっといつも距離近いよね。……彼女とか、ヤキモチやかない?」 「大丈夫です。俺の彼女、そういうの気にしないんで」  二次元だから。  そう言ってまたきゃらきゃらと笑って貰おうと思ったのだが。 「……そっか」  どこか寂しそうに笑う高草木さんに見とれていたら、続きを言いそびれてしまった。 「うわあ、こりゃまたアップダウンキツそうな道路が」  俺は遙か彼方に見える道路に目を細めた。そろそろ死んでしまうかも知れない。  ぜえぜえと吐く息をもはや隠す気力もなくなってきた。明日は土曜日だ。明日必ずリュックタイプのビジネスバッグを買おうと心に決めた。 「6区はキツいよねー」 「は? ロック?」  何か野外コンサートでもあるのだろうか。  そんな俺の疑問が顔に出ていたのだろうか、高草木さんはきょとんとした顔で補足した。 「ニューイヤー駅伝。お正月にやってるの。知らない?」 「それは箱根では」  高草木さんは目に見えてがっかりしたように肩を落とした。俺は慌てた。 「し、調べます! 今年はその駅伝、見ます! てか、沿道で応援しちゃうかなー!」  あまりに俺が慌てていたからか、高草木さんは目を丸くした。そしてにっこりと微笑んだ。 「あたしは毎年沿道で応援してるよ。今年も帰省するし」  よし。来年は一緒に応援する仲になってやる。  そう思うものの、口説こうとすれば警戒されてしまうようで、どうにもあと数ヶ月でどうにかできるとはとても思えなかった。  俺がひっそりとため息をついていると、高草木さんが手を上げて指を遠くの空に伸ばした。 「あの道路には行かないよ。あっちの道路。あそこまで行くと、もう駅が見えるよ」 「まじか!」  俺は両手の拳でガッツポーズをした。  ついに、ついに俺は「一駅分」を踏破したのだ!  当初の予定の「高草木さんと少しでも長く一緒にいたい。あわよくば距離を縮めたい」という目的は、前半のみ三百パーセントの達成率だった。 「いやー、迫力ありましたね。マンモス!」  岩宿ドームと岩宿博物館の取材が終わり、あとは近隣の専門家とのインタビューを残すのみとなった。本物のマンモスの化石に触れた証明書も貰い、俺の気分は高揚していた。高草木さんには「子供かよ」と笑われたが。 「あの家だよ」  高草木さんが指す方を見る。そこは、いかにも旧家然とした瓦葺きの平屋だった。個人宅での取材は入社して初めてだ。緊張する。 「高草木さんの知り合いですよね?」  それなら多少はリラックスできるだろうかと尋ねる。すると高草木さんは首を横に振った。 「いや、あたしは知らないの。両親の知人の知人だから」 「あー」  俺はわずかにがっかりしたが、そんなみっともないところを高草木さんに見せまいと、気合いを入れ直した。  無事取材も終わり、玄関を抜ける。 「あれ。絵梨ちゃん?」  庭で水やりをしていた若い男性がこちらを振り向いて声を掛けてきた。  絵梨ちゃんとは、覚え間違うはずもない、高草木さんの名前だ。  高草木さんは名前を呼んだ彼をきょとんとしばらく見ていたが、そのうち目を見開いて「あ」と小さく叫んだ。 「かずくん?」  かずくんと呼ばれた男性は嬉しそうにこちらに駆け寄ってきた。 「大きくなったなあ! 五年、いや、六年ぶりだな!」  男性は高草木さんの頭を掴んでわっしわっしと撫でた。  なんだ、こいつ。  不快な思いが湧き上がってくるのを堪えるが、こいつは全然頭を撫でるのをやめない。 「ちょ、ちょっと、かずくん! やだっ、やめてよー」  全然やだと思っていないような声で、きゃらきゃら笑いながら高草木さんが抗議する。  俺は何を見せられてんだ。  しかも、こいつ、何年も会ってなかったというわりに、六年ぶりとかきっちり覚えてるところがあやしい。 「ちょっとは女らしくなったなあ」  セクハラ退散! 二十四歳の妙齢の女性に向かって、なんだ、それは!  俺は拳を握りしめた。  俺があやうく殺意を覚えそうになったところで、ようやく彼は俺の存在に気づいたようだった。 「あ、はじめまして」 「……はじめまして」  俺は不機嫌な顔を見せまいと、深々と頭を下げた。 「小島くん。この人、うちの近所に住んでた人なの」  幼なじみというやつか。やっかいな。  俺の敵意がふつふつと醸成されていく。 「かずくん。こちら小島くん。職場の後輩だよ。今日はこのお宅に取材に来たの。かずくんのおうちだったんだねー」  ん?  わずかに疑問が心の中に芽生えたが、彼の次のセリフで霧散した。 「これから帰んの? 電車で高崎まで行くなら、どうせなら国定忠治も取材してけよ」 「勝手なことを……!」 「あ、いいねいいね。今日はもう直帰だから、仕事とは別ってことで行こっかな。小島くんは?」 「いいですね! もちろん行きます!」  二人きりになどさせるか。  俺は意気込む。 「今時刻表調べますね」  俺はできる人間を装うべく、スマホを開いた。確か、このあたりは田舎だから、電車をひとつ逃すと次は三十分来ないはずだ。 「え。電車で行くの?」  かずくんとやらの一声に、俺はスマホを取り落としそうになった。  そうだ。高草木さんは国定駅からの道のりを軽々歩いていた。あのくらい歩けないようじゃ高草木さんに笑われてしまうのかも……。 いや、でも正直もう歩きたくなくね?  って、バカか、お前は! かずくんと高草木さんとのお散歩デートなんざ許せるはずなかろう! 歩く! 俺は一駅分くらい歩いてみせる! 「俺の車に乗ってけよ」 「ありがとー」 「あ」  俺は今、心の底から安堵した。 「なかなか面白かったです」  俺は素直にかずくんにお礼を言った。  国定駅近くのコンビニの駐車場。空では太陽が徐々に傾いてきていた。 「俺だって国定忠治くらい知ってますよ! 歴史系の出版社勤めですよ! 『海道一の大親分』でしょ!?」 「それ清水次郎長」 「てか、群馬に海ないし」  と二人に突っ込まれつつも、焼きまんじゅうを食べたりして楽しく過ごした。 「そっか。楽しんでもらえたなら良かったよ。小島くん、またおいで」 「もちろんです!」  今度来る時は、高草木さんのご両親にご挨拶だぜ。見てろよ、かずくん、負けないぜ! 「じゃ、国定駅まで送るわ」  かずくんがそう言って歩き出す、そこに大きな声がかかった。 「和之! 遅いんだよ!」  びくりとして声のした方を振り向く。コンビニ前の横断歩道を、幼児と手を繋いだ若い女性がこちらに歩いてくるところだった。   かずくんは眉を下げた。 「いや、久しぶりにお義母さんに会ったからゆっくりと……」 「ママから電話あったから。もう一時間以上前にうち出たって」  ん? もしかして、夫婦か。  なーんだ。俺勝手に誤解して勝手にライバル心燃やしてバカみたいだな。ごめんな、かずくん。  ほっとして、そしてあることに気づいた。 「高草木さん」  振り向いて彼女を見る。  高草木さんは驚いたように目を見開いていた。  かずくんが妻帯者だって知らなかったのでは。もしや、ショックを受けていたり……。  こんな奴やめて、俺にしとけよ! 「高草木さ」 「……びっくりしたー。六年前に結婚式で会っただけだけど、更に若返ってるわー。四十すぎにはとても見えない……」  口を開けたまま高草木さんを見ていると「ん? 何?」ときょとんと小首を傾げられた。 「美魔女っすね」 「ねー」  ほんとにごめんな、かずくん。二人の間には何もなかったな。 「しゃーないだろ、久しぶりに絵梨ちゃんに会っちゃったんだからさー」  言い合いをしていたかずくんがふいにこちらにやってきた。そして、高草木さんの腕を掴んだ。 「なあ、絵梨ちゃん」  前言撤回。こいつ、また高草木さんに馴れ馴れしく! と思ったのが早いか、 「近い!」  奥さんが叫ぶと同時に、かずくんを高草木さんからひっぺがした。 「和之は、ほんと近い! 老若男女問わず、ゆりかごから墓場まで、距離が近いの! あたしがヤキモチやくからやめろっていつも言ってるでしょ!」  すごい剣幕で怒る奥さんを、かずくんはしばらく無言でみつめていた。  犬も食わないやつ勃発か?  俺は固唾を飲んで二人を見守る。そして。 「やっべえ。おまえ、ほんとかわいい」  かずくんは、真っ赤になって口元を押さえた。そして人目も憚らず奥さんを抱き締めた。人などこの四人しか見当たらなかったが。 「お邪魔虫は行こっか」  高草木さんが促したので、俺たちは駅を目指すことにした。  車で移動していたのでよくわからないが、駅まで近いと言っていた。さすがに一駅分はかからないだろうと思われた。  ありがたいことに、十五分ほど歩くと駅が見えてきた。そして、ありがたくないことに、目の前で高崎行きの電車に行かれた。  次に電車が来るのは三十分後。  俺たちは、駅のホームのベンチに腰掛けた。今日の取材の話などをする。 「さっきの奥さん、かわいかったねえ」  なんの脈絡もなく、高草木さんがぽつりと言った。 「マジで若かったっすね」  セーラー服着ててもギリセーフかと思われたが、高草木さんに変態だと思われたくないのでそこは口に出さなかった。  高草木さんはベンチに深く背中を預けた。 「素直にやきもちやけて、かわいいなあ」  ほぼ一人言のような呟きだったが、俺は返事をした。 「いや、かわいいっちゃかわいいですけど。あの怒り方怖かったっすよ」  本当は「君のほうがかわいいよ」と言いたかったが、俺のキャラではないのでやめておいた。  高草木さんは急に体を起こした。 「あ、ごめんね! 小島くんの彼女そういうの気にしない人だったもんね。そういう人がかわいくないって言ってるわけじゃないんだよ」  謝られて面食らう。別に全く気にしていない。 「そんなふうに思ってないから大丈夫ですよ。てか、俺の彼女二次元だし」 「ん?」  高草木さんの顔から表情が消えた。  何故だろう。そう思って、俺はひとつの結論に辿り着いた。  やっちまったー!  オタクはオタクの世界の中の常識がオタク以外の世界でも通じると思いがちである。  引かれた! 「彼女が二次元」とかそこまで深い意味ないんだけど、絶対引かれた! オタクキモいとか思われてる! 「いや、あの、俺」  なんと言い訳しようかと焦っていると、高草木さんは考え込むように顎に手を当てた。 「……どんな彼女?」 「は?」  思い切ったように高草木さんは顔を上げた。 「あたし知ってるかな? どんなキャラが好みなの?」 「あ、いや……」  俺は狼狽した。上げようと思えばいくつか好みの女性キャラは上げられるが、色々なタイプを好きになるので一言では言えない。そもそも最推しは目の前にいる。というか、二次元の彼女たちとは比べられない。  好きな人に自分に興味を持ってもらえるのは嬉しいが、この質問は勘弁して欲しい。  俺が口を開けないでいると、高草木さんがそっと身を引いた。 「ごめん……」 「え?」 「しつこくてごめんね。こういうタイプとは違うことだけは確かだよね」  高草木さんは俯いてしまった。   俺は混乱した。あれ? 俺、高草木さんを傷つけてる?  え、俺が? 愛する彼女を?  よくわからんが、これは恥を忍んで答えなければいけないだろう! 「俺の好みのタイプは色々なんでよくわかんないんですけど! 俺の好きな人は高草木さんです!」 「……は?」  高草木さんが目を見開く。  意味が通じなかったのかなと思い、もう一度深呼吸をしてから口を開いた。 「好きです」  次の瞬間。一駅分歩いても涼しい顔をしていた高草木さんの頬が、真っ赤に染まった。 「……手、湿ってて気持ち悪くない?」  高草木さんが遠慮がちに囁く。 「全然気持ち悪くないです。むしろ気持ちいいです」 「き、きもちいいって……」  高草木さんは真っ赤になった。  国定駅のホームのベンチ。田舎駅で人目がほぼないのをいいことに、俺はたった今両想いになった彼女の手を握りしめていた。  彼女の告白の返事はわかりにくかった。 「ごめんね」  そう言われて、目の前が真っ暗になったのもほんの一瞬。 「一駅分歩くのに一時間半かかるって知ってたのに言わなくて。……一緒に歩きたかったの」  意味がわかった瞬間、手を握っていた。それからずっと手を離せないでいる。  手を繋いだまま、反対の手で腕時計を見る。電車はあと三分くらいで着くだろう。 「もうすぐ、電車来ちゃいますね」  ため息をつきながら隣の高草木さんの顔を見つめる。 「今から、一駅分、歩く?」  いたずらっこのような表情で高草木さんが笑う。俺はのけぞった。 「いや! それは勘弁! 電車万歳!」 「あたしはまだまだ歩けるけどなー」  余裕の表情で笑う高草木さんが憎らしいけどかわいい。 「じゃあ、歩きましょうか」 「え?」  俺の提案に高草木さんが驚いたような表情を見せた。 「その代わり、歩くのは一駅分じゃないですよ。高崎まで歩きます」 「いやいや、さすがにそれは、何時間かかるか。日が暮れちゃうよ」  俺は高草木さんの耳に唇を寄せた。 「はい。どこかで泊まらないといけませんね」 「止まる? と……」  意味がわかったらしい高草木さんは、耳まで真っ赤になった。 「歩くのは、一駅分まで!」                          おわり     
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