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白い傘
あ、もう雨が降ってきた……。
私は手にしていた折りたたみ傘を開いた。
猫の絵が小さくプリントされている、白い折りたたみ傘。
『今日の記念に、プレゼントさせて』
あの日の麻耶さんの言葉が聞こえる気がするから、私は雨の日が好きになった。
空を見上げると、どんより、濃いグレーの雲が空を覆っていた。
麻耶さんも今頃、この空を見てるかなあ。
私達は同じ空でつながってる。だから大丈夫。
麻耶さんとのつながりはSNSだった。
『ざるうどん好きとつながりたい』というハッシュタグでゆるくつながっている、何百人かの大きい集合体だったので、麻耶さんと個人的につながれたのは奇跡としか言いようがない。
きっかけは麻耶さんからの、私だけに送られた、非公開のメッセージだった。
私が細い麺が好きだと書いたことに反応してくれて、
『いつか一緒に細い麺のざるうどんを食べたい。私が作るつけ汁は具だくさんだよ』
と返事をくれたのだった。
『ホント?具はなにが入っているの?」
『ほうれん草、ちくわ、ぶなしめじ、ねぎ、鶏肉……ほかにも冷蔵庫に余っているものがあればいろいろ』
『ちくわ?あの?』
『どの?』
『ハットリ君と一緒にいる犬の大好物の』
『あー、ハットリ君に詳しいってことは、私と同年代だね?』
そんな些細な会話から、お互いのLINEで個人的につながるようになり、写真を送り合い、電話で話し、それからは数日に一度、用事もないのに挨拶のメッセージを送るようになった。
私は麻耶さんとくだらない話をする日々が楽しかった。
ある朝、何通ものメッセージが連続で届き、何事かと慌ててスマホを確認すると、
『おはよー』
のスタンプがいくつも届いていて
『動くスタンプだけでたくさん挨拶したかった』
と。
なに、そのお茶目っぷり。
私はその日、何度もその画面を開いてはいくつものスタンプを動かし、そのたびにクスクス笑った。
また別の日は私が新聞を読んで驚いたことを麻耶さんに話した。
『ステレオタイプ脅威っていうのがあってね、女子は数学に弱いって言われてから試験を受けると、点数が低いって実験結果があるんだって』
『影響されちゃうんだ……私ならかえって奮闘しちゃう。そんなことに負けられるか、って思っちゃう』
『おー、強い』
『でも普通に数学ができない』
『あ……』
私は麻耶さんと話をするなら、どんなことも楽しかった。
たった三人。
中年の女性三人で充分に足りる、地元のとある零細企業の事務職。それが私の現在の職場。
私はここでは一番年上だが、勤続年数は一番短い。
非正規雇用を渡り歩いて、ここは何社目だろう。
『同一価値労働同一賃金』なんて政府が声高に主張していたのは何年前だっけ。私の給料も、福利厚生も、正社員並になったことはない。
そして何よりも、人間関係に恵まれていない。
たった三人しかいない事務所での人間関係でさえ、無視と暴言の日々。
辞めたいが辞めないのは、どこに転職しても同じだとわかっているからだ。
「水野さん、見積もりの資料、どこ」
リーダーの上原さんが私を睨む。
「上原さんのパソコンに昨日送りました」
しばらくして
「早く言えよ、バカ!」
バカまでつけて怒鳴る。
「昨日お伝えしました」
「今日も言えよ!」
「今朝、一番に言いましたけど……」
今度は無視……。
毎日こんな調子。
もう一人の事務の向井さんは、ニヤニヤしながら私をチラチラ眺めている。
上原さんと向井さんは仲が良く、二人でお茶をしながら仕事をするので、私は余計に居づらい。
その年は春が早くやってきた。
桜の開花はあちこちで観測史上一番の早さ。
仕事の帰り、自転車で桜並木の下を走った。
花びらが舞う。ひらひら、ひらひら。私の傷だらけの心を覆い隠すように、優しく舞い続ける。
麻耶さんの住む街は桜が咲いただろうか。私が住む街よりずっと北にあるけれど。
会いたい。麻耶さんに会いたい。
私は桜を見上げながらそう思った。
大人になると『友達』はできないものだ、と何度か聞いたことがある。子供時代の友達が一生の友になるとも。しかし私は子供時代の友達で五十代になっても続いている友達なんて一人もいない。年賀状さえ出さなくなってしまった。
私は桜の写真を撮ろうと、鞄からスマホを取り出した。
そのタイミングで、受信音が鳴った。
『めぐりん、ベランダから見える桜が咲き始めたよ。一緒に見られたらよかったのにね。いつかめぐりんと桜の下でお花見がしたい』
めぐみという名前の私を、麻耶さんはめぐりんと呼ぶ。私はそれが密かに嬉しかった。
私は返事のメッセージを書き始めたが、もどかしくなり、電話をかけた。
「めぐりん?どうした?」
「麻耶さんに会いに行きたい!桜を一緒に見たい!」
「は?大歓迎だけど……大丈夫?新幹線を使っても片道四時間くらいかかるよ?」
往復八時間……勤務時間と同じくらい。
そう思うと途方もなく遠く感じた。
「でも私も会いたい。めぐりんとはすごく気が合うって話すたびに思ってたから」
麻耶さんの言葉は一瞬で私の心に風を起こした。今日一日の職場の人間関係での辛さなんて、桜吹雪とともに飛んでいった。
こうして私は片道四時間、乗り換え三回、東京駅の超難関をクリアするという厳しい一人旅を決行することになった。
三月の終わり。
私は朝早く、最寄の駅のホームで緊張していた。
数日前に初めて買った交通系ICカード。新幹線の往復分の切符。詳細に書かれたメモ。それらを入れた鞄のポケットを、何度も何度もチェックしている。
毎日晴れていたのに、この日に限って雨。麻耶さんの自宅から見える桜は、この雨で散ってしまうだろうか。
緊張しながら新幹線に乗り換えた。窓際の席でずっと、早く流れていく風景を眺めていた。
遠くまで広がる田畑。大きな河。小さな集落。だんだん家が増えてきたと思ったら、あっというまに広がるマンション群。そしてビルの森。ジャングルのように、隙間なく、高くそびえる。
なんて遠い……。
東京駅はまだ目的地までの途中だというのに、東京までだけでもこんなに多くの自然と、知らない町と、私が暮らす街よりよっぽど多い人々が生きている大都会がある。
私は後ずさりしたくなるような気持ちを抱えながら、東京駅に足を踏み入れた。
○○線に乗り換える。ただそれだけのことがこんなに大変だったとは。
東京駅の広さ、複雑さ、わかりにくさは尋常ではない。
人に優しくない。全く優しくない!
新幹線を降りてから、もう三十分以上は確実に歩いている。
○○線→、と書いてあるから大丈夫、と思っていたが、書いてあるところになかなか到着しない。
結局、○○線の改札にたどり着くまでに四人の駅員さんに尋ねたのだった。
「○○線はあそこを右に行ってください」
「本当に?行けばわかります?絶対にわかります?」
「わかりますよ」
「わからなかったら、戻って来ますからね!」
目力強く、私は駅員さんに訴えた。
駅員さんは非常にめんどくさそうな顔をして、小さく頷いた。戻って来られないでしょ、と言いたげだ。悔しい。
だいたい、こんなにわからない駅や地下道を、すべて理解している一般人などいるのだろうか。東京駅初心者でも迷わないように造れないのか。観光に来た外国人はいったいどうしているのだろう。
結局四十五分ほど地下道を歩いて、私は○○線に乗ることができた。
足が疲れた。ジンジンする。こんなに歩いたのは何年ぶりだろう。しかも長い距離を歩いたにも関わらず、そのあいだ一度も外の明るさを見ていない。そんな非人間的な経験を日本ですることになるとは。
帰りに東京駅で買い物をしたり、なにか食べたり、東京ばな奈を買ったりしよう、と前日まで膨らんでいた夢は、すでにしぼんだ。
○○線の目的地。
麻耶さんが暮らす街の駅は、雨の午前中でもなんとなく明るく、私を迎え入れてくれた。
改札の向こうには、何度もオンラインや写真で見てきた笑顔の素敵な女性が、私に手を振ってくれた。
「麻耶さーん」
私はホッとして、涙腺が緩みそうだった。
ずっと緊張しっぱなしだったことにやっと気づいた。
「遠いところ、ありがとう。マンション、すぐそこだから……傘は?」
「傘?」
「傘。めぐりん、家から駅までどうしたの?」
「……」
「電車に置いてきちゃった?」
「どこに置いてきたか、わからない……」
数秒の沈黙。
それから麻耶さんは愉しそうに笑った。その笑顔が眩しくて、私は麻耶さんの笑顔を見に来たんだなと、なんとなく思った。
「この駅ビルで傘を買ってから、私の家に行こう」
麻耶さんはウキウキしながら提案した。
「折りたたみ傘にする?駅に入っちゃえば、ずっと使わないもんね」
.麻耶さんに連れられて傘売り場に来た私は、白い折りたたみ傘に引き寄せられた。
白地に小さく猫の絵が入っている。
「かわいい。めぐりんに似合う」
麻耶さんのひと言で、私はその傘に決めた。
「レジ、どこかな。買ってくる」
すると麻耶さんは私の手から傘を取り、
「あのね、良かったら、今日の記念にプレゼントさせて」
と言った。
往復で一万五千円ほどの交通費がかかっていることを気にしてくれていることがすぐにわかった。
お互いの居住地の真ん中辺りで会うこともできた。しかし私がゆっくり麻耶さんと話をして時を過ごしたかったのだ。だから麻耶さんの部屋で二人きりで会いたかった。私が弱くて、勝手に職場の人間関係に傷ついて、麻耶さんという友達にすがったのだ。だから麻耶さんは私が交通費にいくらかけようと、全く気にしてくれる必要はないのに。
今日の、記念……。
麻耶さんも私に会いたいと思ってくれていた。この出会いを大切にしようと思ってくれていた。
それが伝わってきたので
「じゃあ、今日の記念に。ありがとう」
と私は白い傘を、やっと会えた『友達』にプレゼントしてもらった。
麻耶さんの暮らすマンションは駅から五分ほど歩いたところにあり、麻耶さんの部屋は四階だった。
ベランダよりもっと上まで伸びている桜は巨木で、雨に濡れながらも満開で、圧倒されるには充分だった。
弱い人間なんか相手にしない。
孤高の桜の木がそう主張しているように思えてならなかった。
「ね?すごいでしょ」
一緒にベランダから桜を眺めて、麻耶さんが言った。
「来年は一緒に桜の下でめぐりんとお花見したい」
「うん。したいね。来年は雨じゃない日に来るよ」
そんな口約束が、涙が出そうなほど嬉しかった。よくある社交辞令ではないことがわかるから。
麻耶さんは約束していた細い麺のざるうどんを用意してくれていた。
つけ汁は具沢山。ほうれん草、ちくわ、ぶなしめじ、ねぎ、鶏肉。
「本当にちくわが入ってる。うどんとちくわって合うの?」
「めぐりんのお口に合うといいけど……」
ちくわはだし汁をよく吸っていて、それだけでとてもおいしかった。具が多いので食べ応えがあり、おなかがいっぱいになった。
「すごくおいしかった。ありがとう。麻耶さんにお昼ご飯を作ってもらえるなんて、幸せー」
友達と食事をするなんて何年ぶりだろう。大学時代以来だろうか。それはこんなに楽しいことなんだ。
それから私達はお茶を飲みながら、子供の頃好きだったアイドルや、今までに一番好きだったテレビドラマについて話し、大いに盛り上がった。
麻耶さんは中山美穂ちゃんが好きだったと言い、私は聖子ちゃんが好きだったと言った。
「毎度お騒がせします、好きだったー」
「木村一八だったよね」
「どこにいっちゃったんだ、木村一八ー」
「聖子ちゃんとトシちゃん、お似合いだと思ってたのに」
「それ、めぐりんだけだよ。アーモンドチョコレートだって本当はあんなにパリっていい音しない。あれは効果音だよ」
全く建設的ではない会話がこんなに楽しいなんて。いれてもらった煎茶がこんなにおいしいなんて。
別々の場所で育ち、インターネットがなかったら知り合うこともなかった麻耶さんと、こんなに楽しい気持ちを共有できるなんて。
そう思える友達に巡り会えた幸せが、どうかずっと続きますように。
嫌がらせを受けながら仕事をするときは時間はゆっくり、ゆっくり。時計の針は止まりそうなほどゆっくり動くのに。麻耶さんとの楽しい時間はあまりにも早く終わりが来てしまった。私はまだこの部屋に来て、なにも話していない。聴いてほしいことを、まだなにも。
電車の時間が刻々と近づいている。もうマンションを出なければ。
「あのね、麻耶さん」
駅まで私を送るために鞄を手にした麻耶さんは、私の沈んだ顔を一瞥すると、鞄を床に置いた。
「あのね……私……人間関係がうまく築けない……というか……苦手で。それで職場を何度も変えていて……。今の職場なんて三人しか同じフロアにいないのに……それでも無視か暴言しかなくて……。私のなにが悪くて嫌われるのか、わからなくて……」
麻耶さんは数秒考えて、言った。
「『おまえとなんか仲良くしてやんねーよ、べーっ!』て思うかな、私なら」
は?
私は呆然としたまま、反応できなかった。
何年も悩んで、傷ついてきたことを、数秒でひっくり返した人がいた。そんな子供みたいな言葉で。
「私はめぐりんと知り合ってから。今日初めて会って話しても。一度も嫌だと思ったことはない。めぐりんに嫌われる要素は感じないよ?」
「本当に?」
「本当に。その職場の人達の性格じゃない?」
「そう……なの、かな」
私はまだ不安が拭えなかった。
「めぐりんはそんな性格の悪い人達とわざわざ仲良くしたいの?」
仲良く……。したくはない。
首を横に振ると、
「じゃあめぐりんはめぐりんの仕事だけを誠実にこなしているだけでいいんじゃない?友達は必ずしも職場にいなくても」
もう泣きそうだった。
私に原因があると、いつも思っていた。もっと仕事ができる人になればいいんだ、と、必死に勉強して、仕事をがんばった。でもなぜかもっと相手の態度はきつくなった。
……私のせいじゃないんだ。
こんなにまっすぐ、心にすんなり入ってくるように、私を肯定してくれる人がいるんだ。
私はこの出会いに感謝して、麻耶さんのマンションを後にした。
プレゼントしてもらった白い傘をさして、二人で駅までの道を歩いた。
この傘をさしている姿を最初に見せる人が麻耶さんで良かったと思った。
「また会おうね」
「うん、必ず会おうね」
私は改札を抜けると、一度だけ振り返った。
麻耶さんが手を振っていた。顔の横で小さく手を振っている姿がかわいらしかった。
かわいくて、強くて、まっすぐで、優しくて。自分が信じたものをとても大事にする人。私の自慢の、遠くに住んでいる友達。
涙が出そうだったので、軽く手を振って、改札を離れた。
職場では今日も変わらず、人間関係は良くない。
しかし私は以前のように傷つかなくなった。
おまえとなんか仲良くしてやんねーよ、べーっ!
心の中で舌を出す。
自然とオドオドしなくなったのか、少しだけ暴言が減った。
でも私はこれから先、あなたたちと親しくなることは絶対にありませんから。私は私を大事にするから。友達の前で胸を張っていられる私であるために。
一年後、今度こそあの桜の下でお花見をしようと約束をしていたのに。
数日に一度、麻耶さんとメッセージのやりとりをしていたら、どうしても会いたくなって、桜の季節を待たずに、私は秋にまた、片道四時間かけて、会いに行った。
改札の向こうで、麻耶さんが小さく手を振って、笑っていた。
「来たよ」
「良かった、また会えて」
「うん、良かった。無事に会えて」
「また東京駅で迷ったでしょ」
「うん。なんとかならないの?あの駅」
話しながら、並んで駅を出た。白地に猫のプリントがある傘を広げながら。
「また雨だね」
「めぐりん、雨女?」
「私?」
すっきり晴れた青空みたいな友達がいるのに。
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