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本編
「お前たちのうち、どちらかにこの道場を継いでもらいたい」
拳法の師範である結城尊彦が切り出したとき、下座にいた敬三郎は目を見開いた。ついにその時が来た、と心が高揚したのである。
隣を窺えば、同じ師範代の大村広武も、やはりその話か、という顔をした。
師範の斜め後ろに、淡黄色の着物姿で凛とした空気をまとうさわが控えていた。師範の子は彼女だけだ。さわは幼い時分から父によって鍛えられ、師範代の資格を持つ。男なら道場を継いだだろう。
青年二人は「分かりました」と応じた。
師範が振り返って「いいな、さわ」と念を押した。すると彼女は同輩に鋭い視線を向けた。
「ひとつ付け加えてよいですか。私から一本、取ること」
敬三郎と広武は痛いところを突かれた顔をし、それぞれ視線を落としつつ了承した。
「……精進します」
三人の師範代の力量は横並びである。だが男女の対格差から、敬三郎と広武がさわの懐に入るのは至難の業だ。
突きや蹴りは彼らに有利だが、ぎりぎりのところで「怪我をさせては」とつい躊躇する。そのため一本も取ることができなかった。
二年前、さわは試合で左のふくらはぎを痛めた。日常生活や稽古ができるようになるまで回復したが、完治は不可能だった。それから試合には出ず、梅雨の時期には稽古を休む日もある。
彼女は幼いころから技を叩き込まれ、対戦相手を見極める目を持つ。だから立派に師範代を務め続けた。
さわは己が女性であることも、完治せぬ怪我を負ったことも、悔しくてならないだろう。ともに鍛錬に励んだ敬三郎と広武としても、彼女のために一本を取りたい。
それから、さわと勝負を繰り返したが、善戦しても引き分けだ。さわは勝つとむしろ辛そうな顔をした。
ある日、敬三郎が他道場への用事から戻った夕刻。門下生は帰ったあとである。道場へ足を向けると、中からさわの声が聞こえた。
「じき、どちらかが私を下すでしょう。そうすれば、ようやく『結城道場の連中は女に勝てぬ』という謗りを受けなくなります」
師範が静かにたしなめた。
「そのような戯言、みなが試合で奮起して吹き飛ばしている」
「ええ、彼らは結城道場の誇りです。ただ私は――」
敬三郎は、初めて彼女の涙声を耳にした。
「仲間が嘲られるのは……耐えがたかった」
沈黙のあと、師範がやさしく労わった。
「安心しろ。お前は負ける」
「……はい」
敬三郎はそっとその場を離れた。
翌日、準備運動や基礎稽古が済んで、組手に移ったとき、敬三郎はさわの前に立った。
「勝負願います!」
師範の「始め!」の声に、それぞれが組手を始める。
敬三郎の突きをさわがいなし、彼の懐に入り込もうとした。道着をつかむ彼女の手を敬三郎が打ち払う。彼は素早い蹴りを繰り出したが、相手は腕で防ぐ。
さわの足払いに、敬三郎は体勢を崩しかけたが、後ずさりして立て直す。次の瞬間には彼女の突きが迫ってくる。直撃は避けたが、脇腹をこすられ、火がついたような熱さを感じた。
敬三郎はうめきをこらえて、相手の袖をつかむ。後ろから捕えようとしたが、彼女がしゃがみ込んだために腕は空を切った。くるりと反転した彼女が距離を取り、開始時と同じ状況になった。
組手が長引くほど、体力面から彼女のほうが不利になる。しかし、さわの表情は喜びにあふれた。
ああ、そうだ。彼女の輝きを初めて目にした日、敬三郎の世界は塗り替えられた。
彼女を負かす役割を、同輩に譲れるか!
二人はがっしり組み合った。有利なのは敬三郎。けれど彼女は嬉しそうだ。
「今日は勝てるかもしれんな」
「貴女と戦うのは疲れますからね。何度もやり合うのは御免です」
さわは押されて、じりじり下がる。このまま倒す、と決意して、敬三郎は力を込めた。
彼女の体勢が崩れかけた瞬間。
さわが「くっ」とうめいて、がくっと左膝を折った。そして表情を苦痛に歪める。
敬三郎の血の気が引く。激しい戦いで、彼女の古傷に負荷がかかったのだ!
慌てて押しを緩めた刹那、彼は懐に潜り込まれ、片足を払われて背中から床に叩きつけられた。敬三郎は状況が呑み込めず、ぽかんとする。さわはすっと立ち上がり、乱れた道着を整えた。
敬三郎はこわごわ尋ねた。
「左足は?」
彼女はにっと笑った。
「怪我は弱点、と誰が決めた。痛んだ振りをしただけだ」
「……やっぱり勝てる気がしません」
「よく言う。私に、騙し討ちのような真似までさせた」
敬三郎は立ち上がって道着を整え、彼女に頭を下げた。
「参りました」
「ありがとうございました」
さわは顔を上げた彼に謝った。
「心配させて悪かった」
「い、いえ……」
「お前になら――」
さわは泣きそうな顔をした。
「負けても悔いはない」
敬三郎の脳裏に、何年も稽古に打ち込んできた彼女が浮かび、胸がいっぱいになった。
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