最終話「うちの総務には『賢者』がいる」

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最終話「うちの総務には『賢者』がいる」

65c98301-bd2b-4338-8b97-00aff1b6fa4a(UnsplashのMegan Ruthが撮影)  あたしはグイグイと相手の顔に書類をつきつけた。 「診断書です。 『受診者、門脇むつみ  病名:  骨盤部の皮下溢血、  右大腿・左腰部の打撲傷、  左肘部後面の擦過創。  打撲傷は約7日間の安静が、擦過創は約14日間の加療が必要』  これが、今回の騒ぎで、私が払ったです」 「じゅ、じゅぎょうりょう……」  最後に、もういちどヤツを見る。  口が開いた情けない顔。  一度はこの顔を愛したのだけれど。  このひとと、人生を一緒に歩もうと思っていたのだけれど。  もう二度と、見ることはない。  ケリをつけて、あたしはあたらしい人生に足を踏み入れるんだ。  今度こそ、自分の意志で。自分だけの意思で。  真実を見つめなおそう。 「……授業料です。  事実を事実のまま見ずに、自分の見たいように歪曲したらどうなるか。  その危険性を学ぶために支払った授業料でした。  痛かったけれど、つらかったけれど、払っただけの価値はありました。  もう二度と、都合のいいように事実をゆがめることはしません。  事実は、真実です。  正面から見た事実の積み上げだけが、真実に至る道なんです。  あなたもそうお考えになったほうがいいでしょう」  しずかに営業二課をでる。  背後から、『賢者』の一言が聞こえた。 「あのね、念のためにお伝えしておきます。  かつては女性も男性も結婚して姓が変わると、信用機関における自己破産の情報がリセットされました。  それは確かなんです。  でも今は情報社会です。  結婚しても名前を変えても、履歴は残ります。  婿養子に入ったくらいじゃ過去歴はきえない。  貴方にその気がなければ、人生のリセットはできないんですよ。    次の獲物に狙いをつける前にお伝えしておきますね。  営業二課にはたしか、『婿養子』を希望する女子社員がいらした気がするので……」  どこかで、ひいいっ、という絹を裂くような声が聞こえた。  ……あのバカ、どうも二股までかけていたらしい……。  そしてあたしの後ろからは、かつかつという足音が聞こえてきた。  高瀬さんが背筋をまっすぐに伸ばして近づいてくる。 「高瀬さん、ありがとうございました」 「いえ。たいへんにお見事でした。  すべてスムーズに行きましたので、今日の予約に間に合いました」 「……今日も、予約が入っているんですか?」 「毎日入っています。今日も明日も明後日も、です。  悪い事ではありませんよ。  事実を見ようとする女性が、それだけたくさんいる、という事ですから。    私は私なりに、事実に向き合おうとする女性と、共にあろうと思います。  では、お先に」  かかかっ、という足音を立てて高瀬さんはあたしの先を行った。うしろからは、 「ちょっとお、凪ちゃん、ぼくを置いていかないでようう!」  おっと、若林課長をわすれてたわ。  課長はあたしに追いつき、 「あー、お腹空いたね? 昼飯を食う時間はあるかな?」 「コンビニで、何か買えますよ」 「じゃ僕はパスタにしようっと。きみ、どうする?」 「おごってくれるんなら、いただきます」 「……そうやって、男を利用するところだけ、凪に似ないでほしいなあ」  あはは、とあたしは笑った。  明るい初夏の日差しが、オフィスの廊下に満ちている。  もうじき、夏が来る。  名古屋に本社のある三ツ星機械、総務部経理課には、ひとりのお局女子社員がいる。  社内における最強の恋愛アドバイザー、全女子社員から圧倒的な支持を受けている特別な存在。  小さな身体に秘密と痛みを抱える彼女は最高にクールで、最高に賢くて。  いつだって、戦う女子の味方だ。  高瀬凪、31歳。  通称『総務の賢者』。  あたしの、先輩だ。 ーーーーー了-----
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