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第22話「底のしれない暗さ」
(UnsplashのSander Sammyが撮影)
スミレの部屋で泣きつづけるあたしの頭には、ハサミの刃でつけられた傷がある。
そこの傷はようやくふさがってきたけど、お腹は黄色や青紫色の打撲の跡だらけ。
あたしはもう、モノを食べる気力もない。
すべては、ママの電話から始まった……。
『むつみ? 悪いけど結納を延期してちょうだい。『浄心』のおじさまが、危篤でね……ほら、お祖父ちゃまのお姉さんが嫁いだ先の、弟さんね……。
うちと関係は遠いんだけど、本家筋の人だから、危篤っていうときに結納はできないのよ。青井さんにもそう言っておいてね』
はあ、たいへんだわ。
あたしはちょっと困ったけど、帰宅した爽太さんに伝えた。
「ごめんなさい、親戚に危篤のひとがいて、結納は少し延期になるの」
「……えんき?」
スーツを脱ぎかけていた爽太さんの手が止まった。
……声が低い。
なぜか、ぞっとした。こんな爽太さんの声は聞いたことがない。
いつものんびりしたしゃべり方をするのに、やけにとげとげしい声だ。
あたしは精いっぱい明るい声で、
「でも一カ月ほど遅れるだけだから。ママは、先に結婚式場を探しておいたらって……きゃあっっ! 爽太さん……いったい、なにを……っ!?」
いきなり、髪をつかまれた。そのまま引きずられる。生え際がじんじんと熱くなった。髪が抜けそうに、痛い。いや、実際に抜けたと思う。
「そ……そうたさん……いったい、なにを……」
「おくれるって、どういうことだよ?」
「だから……親戚の人が、きとくで……」
「そっちの家のじじいだか、ばばあだかが、死ぬかどうかで、結納を遅らせる理由が、わからねえっての」
爽太さんはスーツのポケットから小さなハサミを取り出した。
そして髪の下の、目立たない部分にハサミを入れる……。
ザクッ、と髪が切り落とされるのがわかった。
「……ひっ!」
小さく叫ぶと、あたしを床に叩きつけられた。
それほど激しくされたわけじゃないけど、身長差が20センチもあるような相手にフローリングの床へ投げられたらやっぱり痛い。
それ以上に、ショックでわけが分からない。
爽太さんはスーツを脱いで放り出し、
「ったくよう、しつけのなってないバカ女は、これだから困るよ。
しつけ直さなきゃダメだな。
それで、どれくらい遅れるんだよ」
「……なにが?」
ちっ、と爽太さんは舌打ちをした。
平手打ちが飛んできた。
「……きゃあっ!」
「うるせえな、口を閉じろよ。
あのな、結納だよ。一カ月先だってキツいっていうのに、これ以上遅れてたまるか。
おい、ばばあに言って、予定どおりやらせろ」
「だって……できない……」
すると、爽太さんはいきなりあたしを蹴とばした。
「いたっ!」
「いたい? これくらいで? ふざけんな。
予定通りに進まなきゃ、こっちがツメられるんだよ。
本気でヤバいんだよ」
訳が分からない。爽太さんが言っていることも分からないし、やっていることはもっとわからない。
混乱しているあたしの目の前に、爽太さんがしゃがみ込んだ。
笑っている。
でも目が――いつもニコニコしている目がぞっとするほど暗かった。暗さの向こうに、底のしれない空虚さが広がっている。
「あのね、むつみ。僕たち結婚するんだよ。
結婚するって事は、お互いに助け合うって事だよ。
わかる? 『助け合う』って。
よーくわかるように、これからじっくりと仕込んであげるから。
だから、明日お家に電話するんだよ。
『会社にも結婚するって言っちゃったし、予定どおりに結納したい』って。
きみのパパとママは甘いから。内輪の結納くらい一カ月後にやれるでしょ」
「ゆいのうを……予定どおり……」
「そう。できるね、むつみ。
これから二人で生きていくんだ。おたがいに、助け合わなきゃね」
「だって、これ……助け合うとかじゃ、ないよ……」
「わかんない子だなあ」
爽太さんは、仕方がないというふうに立ち上がった。
そしていきなり、お腹を蹴ってきた。
「ひっ!」
「どうして、わからないかなあ。
じゃあもう先に籍を入れちゃおうか。最後の目的は、ソレだもんな」
どがっ!
どがっ!
お腹、胸、胃のあたりに次々と爽太さんの足が食い込む。
痛い、苦しい、痛い。
そしてなによりも、訳が分からない。
結納が遅れることが、どうしてそんなに問題になるの?
最終的に、幸せな結婚が出来れば、それでいいんじゃないの?
あたしたち、こんな状況で、幸せになんてなれるの?
幸せな結婚って。
なに??)
(UnsplashのSander Sammyが撮影)
スミレの部屋で泣きつづけるあたしの頭には、ハサミの刃でつけられた傷がある。
そこの傷はようやくふさがってきたけど、お腹は黄色や青紫色の打撲の跡だらけ。
あたしはもう、モノを食べる気力もない。
すべては、ママの電話から始まった……。
『むつみ? 悪いけど結納を延期してちょうだい。『浄心』のおじさまが、危篤でね……ほら、お祖父ちゃまのお姉さんが嫁いだ先の、弟さんね……。
うちと関係は遠いんだけど、本家筋の人だから、危篤っていうときに結納はできないのよ。青井さんにもそう言っておいてね』
はあ、たいへんだわ。
あたしはちょっと困ったけど、帰宅した爽太さんに伝えた。
「ごめんなさい、親戚に危篤のひとがいて、結納は少し延期になるの」
「……えんき?」
スーツを脱ぎかけていた爽太さんの手が止まった。
……声が低い。
なぜか、ぞっとした。こんな爽太さんの声は聞いたことがない。
いつものんびりしたしゃべり方をするのに、やけにとげとげしい声だ。
あたしは精いっぱい明るい声で、
「でも一カ月ほど遅れるだけだから。ママは、先に結婚式場を探しておいたらって……きゃあっっ! 爽太さん……いったい、なにを……っ!?」
いきなり、髪をつかまれた。そのまま引きずられる。生え際がじんじんと熱くなった。髪が抜けそうに、痛い。いや、実際に抜けたと思う。
「そ……そうたさん……いったい、なにを……」
「おくれるって、どういうことだよ?」
「だから……親戚の人が、きとくで……」
「そっちの家のじじいだか、ばばあだかが、死ぬかどうかで、結納を遅らせる理由が、わからねえっての」
爽太さんはスーツのポケットから小さなハサミを取り出した。
そして髪の下の、目立たない部分にハサミを入れる……。
ザクッ、と髪が切り落とされるのがわかった。
「……ひっ!」
小さく叫ぶと、あたしを床に叩きつけられた。
それほど激しくされたわけじゃないけど、身長差が20センチもあるような相手にフローリングの床へ投げられたらやっぱり痛い。
それ以上に、ショックでわけが分からない。
爽太さんはスーツを脱いで放り出し、
「ったくよう、しつけのなってないバカ女は、これだから困るよ。
しつけ直さなきゃダメだな。
それで、どれくらい遅れるんだよ」
「……なにが?」
ちっ、と爽太さんは舌打ちをした。
平手打ちが飛んできた。
「……きゃあっ!」
「うるせえな、口を閉じろよ。
あのな、結納だよ。一カ月先だってキツいっていうのに、これ以上遅れてたまるか。
おい、ばばあに言って、予定どおりやらせろ」
「だって……できない……」
すると、爽太さんはいきなりあたしを蹴とばした。
「いたっ!」
「いたい? これくらいで? ふざけんな。
予定通りに進まなきゃ、こっちがツメられるんだよ。
本気でヤバいんだよ」
訳が分からない。爽太さんが言っていることも分からないし、やっていることはもっとわからない。
混乱しているあたしの目の前に、爽太さんがしゃがみ込んだ。
笑っている。
でも目が――いつもニコニコしている目がぞっとするほど暗かった。暗さの向こうに、底のしれない空虚さが広がっている。
「あのね、むつみ。僕たち結婚するんだよ。
結婚するって事は、お互いに助け合うって事だよ。
わかる? 『助け合う』って。
よーくわかるように、これからじっくりと仕込んであげるから。
だから、明日お家に電話するんだよ。
『会社にも結婚するって言っちゃったし、予定どおりに結納したい』って。
きみのパパとママは甘いから。内輪の結納くらい一カ月後にやれるでしょ」
「ゆいのうを……予定どおり……」
「そう。できるね、むつみ。
これから二人で生きていくんだ。おたがいに、助け合わなきゃね」
「だって、これ……助け合うとかじゃ、ないよ……」
「わかんない子だなあ」
爽太さんは、仕方がないというふうに立ち上がった。
そしていきなり、お腹を蹴ってきた。
「ひっ!」
「どうして、わからないかなあ。
じゃあもう先に籍を入れちゃおうか。最後の目的は、ソレだもんな」
どがっ!
どがっ!
お腹、胸、胃のあたりに次々と爽太さんの足が食い込む。
痛い、苦しい、痛い。
そしてなによりも、訳が分からない。
結納が遅れることが、どうしてそんなに問題になるの?
最終的に、幸せな結婚が出来れば、それでいいんじゃないの?
あたしたち、こんな状況で、幸せになんてなれるの?
幸せな結婚って。
なに??
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