第22話「底のしれない暗さ」

1/1
前へ
/41ページ
次へ

第22話「底のしれない暗さ」

54a5b80c-543d-4a2c-a01f-8898bda496f8(UnsplashのSander Sammyが撮影)  スミレの部屋で泣きつづけるあたしの頭には、ハサミの刃でつけられた傷がある。  そこの傷はようやくふさがってきたけど、お腹は黄色や青紫色の打撲の跡だらけ。  あたしはもう、モノを食べる気力もない。  すべては、ママの電話から始まった……。  『むつみ? 悪いけど結納を延期してちょうだい。『浄心(じょうしん)』のおじさまが、危篤でね……ほら、お祖父ちゃまのお姉さんが嫁いだ先の、弟さんね……。  うちと関係は遠いんだけど、本家筋の人だから、危篤っていうときに結納はできないのよ。青井さんにもそう言っておいてね』  はあ、たいへんだわ。  あたしはちょっと困ったけど、帰宅した爽太さんに伝えた。 「ごめんなさい、親戚に危篤のひとがいて、結納は少し延期になるの」 「……えんき?」  スーツを脱ぎかけていた爽太さんの手が止まった。  ……声が低い。  なぜか、ぞっとした。こんな爽太さんの声は聞いたことがない。  いつものんびりしたしゃべり方をするのに、やけにとげとげしい声だ。  あたしは精いっぱい明るい声で、 「でも一カ月ほど遅れるだけだから。ママは、先に結婚式場を探しておいたらって……きゃあっっ! 爽太さん……いったい、なにを……っ!?」  いきなり、髪をつかまれた。そのまま引きずられる。生え際がじんじんと熱くなった。髪が抜けそうに、痛い。いや、実際に抜けたと思う。 「そ……そうたさん……いったい、なにを……」 「おくれるって、どういうことだよ?」 「だから……親戚の人が、きとくで……」 「そっちの家のじじいだか、ばばあだかが、死ぬかどうかで、結納を遅らせる理由が、わからねえっての」  爽太さんはスーツのポケットから小さなハサミを取り出した。  そして髪の下の、目立たない部分にハサミを入れる……。  ザクッ、と髪が切り落とされるのがわかった。 「……ひっ!」  小さく叫ぶと、あたしを床に叩きつけられた。  それほど激しくされたわけじゃないけど、身長差が20センチもあるような相手にフローリングの床へ投げられたらやっぱり痛い。  それ以上に、ショックでわけが分からない。  爽太さんはスーツを脱いで放り出し、 「ったくよう、しつけのなってないバカ女は、これだから困るよ。  しつけ直さなきゃダメだな。  それで、どれくらい遅れるんだよ」 「……なにが?」  ちっ、と爽太さんは舌打ちをした。  平手打ちが飛んできた。 「……きゃあっ!」 「うるせえな、口を閉じろよ。  あのな、結納だよ。一カ月先だってキツいっていうのに、これ以上遅れてたまるか。  おい、ばばあに言って、予定どおりやらせろ」 「だって……できない……」  すると、爽太さんはいきなりあたしを蹴とばした。 「いたっ!」 「いたい? これくらいで? ふざけんな。   予定通りに進まなきゃ、こっちがツメられるんだよ。  本気でヤバいんだよ」  訳が分からない。爽太さんが言っていることも分からないし、やっていることはもっとわからない。  混乱しているあたしの目の前に、爽太さんがしゃがみ込んだ。  笑っている。  でも目が――いつもニコニコしている目がぞっとするほど暗かった。暗さの向こうに、底のしれない空虚さが広がっている。 「あのね、むつみ。僕たち結婚するんだよ。  結婚するって事は、お互いに助け合うって事だよ。  わかる? 『助け合う』って。  よーくわかるように、これからじっくりと仕込んであげるから。  だから、明日お家に電話するんだよ。 『会社にも結婚するって言っちゃったし、予定どおりに結納したい』って。  きみのパパとママは甘いから。内輪の結納くらい一カ月後にやれるでしょ」 「ゆいのうを……予定どおり……」 「そう。できるね、むつみ。   これから二人で生きていくんだ。おたがいに、助け合わなきゃね」 「だって、これ……助け合うとかじゃ、ないよ……」 「わかんない子だなあ」  爽太さんは、仕方がないというふうに立ち上がった。  そしていきなり、お腹を蹴ってきた。 「ひっ!」 「どうして、わからないかなあ。  じゃあもう先に籍を入れちゃおうか。最後の目的は、ソレだもんな」  どがっ!  どがっ!  お腹、胸、胃のあたりに次々と爽太さんの足が食い込む。  痛い、苦しい、痛い。  そしてなによりも、訳が分からない。  結納が遅れることが、どうしてそんなに問題になるの?  最終的に、幸せな結婚が出来れば、それでいいんじゃないの?  あたしたち、こんな状況で、幸せになんてなれるの?  幸せな結婚って。  なに??) (UnsplashのSander Sammyが撮影)  スミレの部屋で泣きつづけるあたしの頭には、ハサミの刃でつけられた傷がある。  そこの傷はようやくふさがってきたけど、お腹は黄色や青紫色の打撲の跡だらけ。  あたしはもう、モノを食べる気力もない。  すべては、ママの電話から始まった……。  『むつみ? 悪いけど結納を延期してちょうだい。『浄心(じょうしん)』のおじさまが、危篤でね……ほら、お祖父ちゃまのお姉さんが嫁いだ先の、弟さんね……。  うちと関係は遠いんだけど、本家筋の人だから、危篤っていうときに結納はできないのよ。青井さんにもそう言っておいてね』  はあ、たいへんだわ。  あたしはちょっと困ったけど、帰宅した爽太さんに伝えた。 「ごめんなさい、親戚に危篤のひとがいて、結納は少し延期になるの」 「……えんき?」  スーツを脱ぎかけていた爽太さんの手が止まった。  ……声が低い。  なぜか、ぞっとした。こんな爽太さんの声は聞いたことがない。  いつものんびりしたしゃべり方をするのに、やけにとげとげしい声だ。  あたしは精いっぱい明るい声で、 「でも一カ月ほど遅れるだけだから。ママは、先に結婚式場を探しておいたらって……きゃあっっ! 爽太さん……いったい、なにを……っ!?」  いきなり、髪をつかまれた。そのまま引きずられる。生え際がじんじんと熱くなった。髪が抜けそうに、痛い。いや、実際に抜けたと思う。 「そ……そうたさん……いったい、なにを……」 「おくれるって、どういうことだよ?」 「だから……親戚の人が、きとくで……」 「そっちの家のじじいだか、ばばあだかが、死ぬかどうかで、結納を遅らせる理由が、わからねえっての」  爽太さんはスーツのポケットから小さなハサミを取り出した。  そして髪の下の、目立たない部分にハサミを入れる……。  ザクッ、と髪が切り落とされるのがわかった。 「……ひっ!」  小さく叫ぶと、あたしを床に叩きつけられた。  それほど激しくされたわけじゃないけど、身長差が20センチもあるような相手にフローリングの床へ投げられたらやっぱり痛い。  それ以上に、ショックでわけが分からない。  爽太さんはスーツを脱いで放り出し、 「ったくよう、しつけのなってないバカ女は、これだから困るよ。  しつけ直さなきゃダメだな。  それで、どれくらい遅れるんだよ」 「……なにが?」  ちっ、と爽太さんは舌打ちをした。  平手打ちが飛んできた。 「……きゃあっ!」 「うるせえな、口を閉じろよ。  あのな、結納だよ。一カ月先だってキツいっていうのに、これ以上遅れてたまるか。  おい、ばばあに言って、予定どおりやらせろ」 「だって……できない……」  すると、爽太さんはいきなりあたしを蹴とばした。 「いたっ!」 「いたい? これくらいで? ふざけんな。   予定通りに進まなきゃ、こっちがツメられるんだよ。  本気でヤバいんだよ」  訳が分からない。爽太さんが言っていることも分からないし、やっていることはもっとわからない。  混乱しているあたしの目の前に、爽太さんがしゃがみ込んだ。  笑っている。  でも目が――いつもニコニコしている目がぞっとするほど暗かった。暗さの向こうに、底のしれない空虚さが広がっている。 「あのね、むつみ。僕たち結婚するんだよ。  結婚するって事は、お互いに助け合うって事だよ。  わかる? 『助け合う』って。  よーくわかるように、これからじっくりと仕込んであげるから。  だから、明日お家に電話するんだよ。 『会社にも結婚するって言っちゃったし、予定どおりに結納したい』って。  きみのパパとママは甘いから。内輪の結納くらい一カ月後にやれるでしょ」 「ゆいのうを……予定どおり……」 「そう。できるね、むつみ。   これから二人で生きていくんだ。おたがいに、助け合わなきゃね」 「だって、これ……助け合うとかじゃ、ないよ……」 「わかんない子だなあ」  爽太さんは、仕方がないというふうに立ち上がった。  そしていきなり、お腹を蹴ってきた。 「ひっ!」 「どうして、わからないかなあ。  じゃあもう先に籍を入れちゃおうか。最後の目的は、ソレだもんな」  どがっ!  どがっ!  お腹、胸、胃のあたりに次々と爽太さんの足が食い込む。  痛い、苦しい、痛い。  そしてなによりも、訳が分からない。  結納が遅れることが、どうしてそんなに問題になるの?  最終的に、幸せな結婚が出来れば、それでいいんじゃないの?  あたしたち、こんな状況で、幸せになんてなれるの?  幸せな結婚って。  なに??
/41ページ

最初のコメントを投稿しよう!

131人が本棚に入れています
本棚に追加