低血糖

1/4
39人が本棚に入れています
本棚に追加
/47ページ

低血糖

 君が帰ってきた。  君が玄関で靴を脱いで、バッグを床に置いて、バッグの中身を洗濯機に入れようか迷って。  そんな物音で僕の部屋の色彩はよみがえる。 「三神さん。ただいま」  僕の肩のまわりに君の腕が降りてくる。  オレンジとベルガモットの香り。  僕と同じシャンプーの香りが君の汗と混じって甘ったるく感じられる。 「柏田くん。おかえり」  君の顔を振り仰いだら、くらっとした。  恋の病だと思う。 「めまいがする」  僕の言葉に君が不安そうな顔をした。  大丈夫だよ。心配しなくても、恋の病だからさ。 「三神さん。いま、何時か分かりますか?」 「午後六時四二分、です」 「三神さん、今日、ごはん食べましたか?」  今朝は君と一緒に朝ごはんを食べた。シリアルとチーズとコーヒー。  朝ごはんは幸せ。君がいるなら。  ひとりだと食べない。 「朝ごはん、一緒に食べたよね」 「三神さん、お昼ごはんは?」  思い出せない。 「おやつは?」  僕は思わずぷっと吹き出す。  おやつ、って君が言うと可愛い。  それ、すごく美味しそう。 「ずーっとおんなじ姿勢で、ずーっと食べないで作業していたんでしょう?」  僕は椅子の上でもぞもぞとお尻を動かす。椅子そのものは座り心地は悪くない。中古で買ったアーロンチェアっぽいやつ。  でも僕は椅子の上に膝を抱えて座るから、どんな椅子でもあまり意味はないのかも。ほら、腰痛対策とか。 「低血糖ですよ」 「ん?」  そんな可愛い顔してもだめです、と君は目を逸らした。  目を逸らしたままポケットから飴玉を取り出してパッケージを開けた。  いちご模様のパッケージの中からピンク色の飴玉。  その飴玉どうしたのかな。誰かから、もらったのかな。  君はダンス部で、ダンス部ってだいたい女の子が多くって、君はいつも女の子に囲まれてて、それで甘いものなんか、もらっちゃうのかな。 「あーん、ってしてください」  僕は思わずぷっと吹き出すんだ。  あーんって、君が言うと、可愛くていやらしい。  僕は目を閉じて口を開ける。君が飴玉を口に入れてくれる。  甘い。脳にじわっと広がる感じの甘さ。人工的ないちごの香り。
/47ページ

最初のコメントを投稿しよう!