39人が本棚に入れています
本棚に追加
/47ページ
低血糖
君が帰ってきた。
君が玄関で靴を脱いで、バッグを床に置いて、バッグの中身を洗濯機に入れようか迷って。
そんな物音で僕の部屋の色彩はよみがえる。
「三神さん。ただいま」
僕の肩のまわりに君の腕が降りてくる。
オレンジとベルガモットの香り。
僕と同じシャンプーの香りが君の汗と混じって甘ったるく感じられる。
「柏田くん。おかえり」
君の顔を振り仰いだら、くらっとした。
恋の病だと思う。
「めまいがする」
僕の言葉に君が不安そうな顔をした。
大丈夫だよ。心配しなくても、恋の病だからさ。
「三神さん。いま、何時か分かりますか?」
「午後六時四二分、です」
「三神さん、今日、ごはん食べましたか?」
今朝は君と一緒に朝ごはんを食べた。シリアルとチーズとコーヒー。
朝ごはんは幸せ。君がいるなら。
ひとりだと食べない。
「朝ごはん、一緒に食べたよね」
「三神さん、お昼ごはんは?」
思い出せない。
「おやつは?」
僕は思わずぷっと吹き出す。
おやつ、って君が言うと可愛い。
それ、すごく美味しそう。
「ずーっとおんなじ姿勢で、ずーっと食べないで作業していたんでしょう?」
僕は椅子の上でもぞもぞとお尻を動かす。椅子そのものは座り心地は悪くない。中古で買ったアーロンチェアっぽいやつ。
でも僕は椅子の上に膝を抱えて座るから、どんな椅子でもあまり意味はないのかも。ほら、腰痛対策とか。
「低血糖ですよ」
「ん?」
そんな可愛い顔してもだめです、と君は目を逸らした。
目を逸らしたままポケットから飴玉を取り出してパッケージを開けた。
いちご模様のパッケージの中からピンク色の飴玉。
その飴玉どうしたのかな。誰かから、もらったのかな。
君はダンス部で、ダンス部ってだいたい女の子が多くって、君はいつも女の子に囲まれてて、それで甘いものなんか、もらっちゃうのかな。
「あーん、ってしてください」
僕は思わずぷっと吹き出すんだ。
あーんって、君が言うと、可愛くていやらしい。
僕は目を閉じて口を開ける。君が飴玉を口に入れてくれる。
甘い。脳にじわっと広がる感じの甘さ。人工的ないちごの香り。
最初のコメントを投稿しよう!