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「何か弾きましょうか?」
幸人くんが俺に微笑みかける。
彼は優しい。
求められているものに敏感なんだと思う。
例えばウォームアップに適したテンポの曲、例えばワルツというふうに、練習を邪魔しないように弾いてくれる。生演奏でレッスンなんてそんな贅沢なこと、今までやったことがなかった。
「ハノンがいい」
隼が割り込む。
「ハノンは指の練習曲だよ」
幸人くんが困ったように隼を見返す。
「指の練習って、なんかエロくていいじゃん?」
隼が幸人くんの背に抱きつく。
隼は元々、人との距離感が近いヤツではあった。
近いヤツではあったけど、幸人くんに対しては近すぎるんじゃないのかな。
幸人くんがピアノに向き直る。
指が動き始める。
指が動く直前の余白は、踊る前の一拍にも似ている。
一瞬浮き上がる。
音が上がって下がって、細かな階段を上り下りするみたい。エッシャーのだまし絵みたいに永遠に続きそうな階段が目の前に現れる。
上がったり下がったり。
幸人くんはシンコペーションを入れながらハノンを弾き始めた。
「いつもとちょっと違う」
隼が幸人くんのピアノに感想を述べる。
「今日はジャズ風にしてみたんだ。ジャズというかブルース風っていうか」
涼しげな顔で幸人くんが言う。
幸人くんはセンスがある、と思う。踊らせるためのピアノを弾くセンス。
拍がいい感じに、ほんのちょっと、うねる。
「悪くない」
隼が満足そうに幸人くんの髪に手を滑り込ませる。耳の後ろに唇を寄せる。
「ユキのハノンを聴いていると、目の前に階段がどんどん出来上がっていく感じがする。上ったり下ったり、永遠に続いている不思議な階段なんだ」
俺は驚いて隼の顔をのぞき見た。
隼が俺と同じことを感じていた。そのことは驚いたけど嬉しい。
でもそれ以上に、隼がこんな詩的な表現をするヤツだとは知らなかった。
永遠、だなんて。
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