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「俺を助けて避難場所を確保するか。それとも怪しい俺を置いて逃げ、追いつかれる可能性が高いほうを取るか」
さぁ決断を。
劇の一場面を彷彿とさせる。
明らかにあやしい男に迷いはなく、自信に満ちていた。
月音の選択を最初から知っていると言わんばかりに。
口の端をつりあげ、目を三日月にかたどる。寸分変わりない表情は凄みがあった。恐ろしいほどに、完璧な笑みだ。
――人は美しすぎるものを目の前にしたとき、畏怖を抱くのだと初めて知った。
月音は導かれて、誘いのまま手をつかんだ。
ぐっと力を入れて引き上げれば、彼は、よたつきながらも立ち上がる。ふらり、と月音の肩にぶつかり、もたれ掛かる。
吐息が首筋にあたり、ぞくりと粟立つ。
彼がのろりと、なまめかしい仕草で月音を見つめた。
美しさに瞬きすら忘れて見入る。
男の黒曜石のような透き通った瞳は、底知れぬ闇を称えており思考を 見透かすように輝いていた。静かで澄み渡る、それは優しさの奥に、別のものを巧妙に隠している。
――近くで魅入られてようやく気がついた。
逃れぬ距離。月音は息を呑む。
まずい、と身を引こうとしたが、手遅れなのだと掴まれた腕に伝わる体温から言外に伝えられた。
甘美な視線は、月音の身体を絡め取って自由を奪った。
「急ごうか」
彼の口から、熟れた果実のような舌と、獰猛な獣の牙がのぞく。
支えているのは月音のはずだが、足は引っ張られるように動き始めた。見えぬ糸で操られて、為す術もなくついていく。
いまだ響く怒号を背に、スポットライトの当たる劇から降りて。
暗い闇へと溶け込むために踏み出した。
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