88人が本棚に入れています
本棚に追加
忘れていない。ずっとそばにある、数少ない母親との思い出。
施設でお世話になる月音に会いに来ると、毎回気分を悪くし、倒れてしまう母親だった。酷いときは嘔吐と過呼吸で、運ばれる。会話もろくにできやしない。
そんな母親が一度だけ、やつれた姿で手料理を持ってきた。青ざめて、今にも気を失いそうに震えながら。
月音を直視できないと、顔を背けてでも手渡した。
それは。玉子焼きと呼ぶにも躊躇われるほど、黒く焦げた何かであった。スクランブルエッグ、に近い気もする。味は苦くて、食感はじゃりじゃりで、かたい。
それでも月音は『美味しい』と呟いていた。
心の底から、そう思ったのだ。
母は目がこぼれそうなど見開いて。じわりと涙を浮かべると、頼りなさげに、しかし、とても幸せそうに笑った。
花が綻ぶような母の笑顔を、月音は、そのとき初めて見た。
「――は、母、が」
静かな室内に転がる声は、存外震えており感情が露わになっていた。それ以上は、喉につまる。一向に出でこない、諦めて顔を俯かせた。
最初のコメントを投稿しよう!