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もう戻らないと知っているから。
二度とあの安らぎはやってこない。壊れてしまった。
指先が冷えていく、凍り付いて動かない。全身の痛みすら助長させて、縛り付ける。呼吸が満足に出来ない、冷たい水底へと沈む感覚に、視界が黒く染まって。
「それでも」
力のある声と共に、彼のぬくもりが分け与えられる。
まばたきの向こうに、彼が変わらずいた。ゆっくりと引き上げて、日差しの元へと誘う。いつの間にか繋いだ手は、離れず溶け合うように引っ付いたまま。
「抱えていかなければ、後悔する。忘却は救いだが、特別だと思った理由さえも拒絶すれば、本当に全てを失ってしまう」
真摯な態度に月音は、瞬きすらできない。ただ彼を見つめる。
「急がなくていい。何故特別なのかを知るのが大切なんだ。ゆっくり自分の中に取り込む」
できるか、と問われて半分無意識に頷いた。
ふっと離れた手が名残しくなるのを誤魔化すように、慌てて自分の箸を握り直す。
並べられた食事を、再度見渡して、いただきます、と呟く。今度は泰華に倣ってではなく、自分の意思で。
そっと玉子焼きをつまみ、口に入れた。じゅわりと広がるだしの味、卵の甘み。香りに、柔らかな食感。感じること全部を逃さないように、しっかり拾って味わう。
「食べれるか」
美味しいとは問わない彼が眩しく、そっと目を閉じた。瞼で黒く染められた視界には、泰華と母の微笑みが浮かぶ。
月音は、静かに、首を縦に振った。
それが今出来る、精一杯の返事であった。
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